春を抱きしめて

 

描かれる夢は大きくて眩しすぎて、これが叶ってしまったらここまで続いてきた夢が無慈悲にさめてしまうのかもしれないという不安と背中合わせで過ごしてきた。

この世界にまふまふさんがいる明日は無いのかもしれなかった。

まふまふさんを見ている時、そういう危機感を常に持ってしまうくらい、本当にまふまふさんはいつでも死んでしまうような生き方だった。

 

「またね」が無い時、「ばいばい」や「さよなら」の時はもう次が無いのかもしれないと思った。「またいつか」と次が明示されなかった時は、その"いつか"はもう二度とこないのかもしれない と悟った。大袈裟に聞こえるかもしれないけど実際、まふまふさんはいつだって"その時"に全てを終わらせていた。だからどんな今日も明日には何も無かった。

 

 

 

大人になることは汚れることだろうか。あの頃感じていた確かな、忘れたくないはずの何かを簡単に忘れてしまえることだろうか。大人は、あの頃ずっと求めていた強く揺るがない何かを知っている安定した存在であるのだろうか。

春は憧れの象徴だ。素直に受け取るのを憚られるような眩しさに包まれた季節だ。喜びと寂しさに涙を流す季節だ。そんな春に手が届き始めているような気がしている。

 

ライブでまふまふさんがちゃんと笑っているのを初めて見た時、まふまふさんってこんな風に笑える人なんだと思ったのをよく覚えている。光が弾けるような笑顔で、きらきらしていて、お星様みたいだと思った。

 

人は生きている。人は矛盾を抱えて生きている生き物だ。それをわかっておくことが大事だと思う。

人が変わるのは、裏切るためじゃない。突然変異でもない。全てがそうとは言えないが、変わらないために変わるのだと思う。守りたいものがあるから、変わる。変わることはたたかっている証拠だと思う。生きている証拠だ。

生きることを邪魔してはいけない。あの時と言ってることが違うだの昔の形ある証拠を引っ張ってくることに一生懸命な声に耳を傾けないでいい。同情しなくていい。ただ生きていってほしい。

 

受け入れることは諦めることではない。受け入れることは許して、抱きしめることだ。大人になることはきっと、受け入れることだと思う。春は愛することだ。

 

 

 

周りがどれだけ慰めようと許そうと、当人が本当にそう思えなければ全て嘘に聞こえ、その思いを素直に受け取れない。届かない。

何かを思いやって抱いた感情を、偽善なのかもしれないと自らを省みる言葉を聞いた時、この人は心があって正しく、臆病で優しい人だと思った。

 

 

立ち止まることはこわい。二度と進めなくなってしまう気がするから。一度踏み出してしまったのなら惰性でも、とにかく前に進み続けなければならないという思いが心を縛る。分からなくても足を動かし続ける。そうでないとこの世界では生きてないみたいに扱われてしまう。

失ったもの、零してしまったもの一つひとつに目を合わせて、ごめんねって謝る暇はない。そんなことをしていれば置いていかれてしまう。世界から自分がいなくなってしまう。納得できない思いも、なんとか理由を探し出して取り付けて、はい綺麗だよってさよならできるように。さほど重要じゃないことは、無かったことにして、平気なふりをして、大丈夫にして二度と人に聞かせないように。でも聞こえる声には耳を傾けて。自分の声には蓋をして。そうやって生きていく。生きていかなければ間に合わない。

 

前に進むために捨てたものや、抱えきれなかった願いに押しつぶされる前に自分を抱きしめてあげられたらいい。後ろめたいこと、それが正当な理由を与えられない悪事だろうが、誰にも言えない闇のような過去であっても、どうでもいい。そんなのどうだっていいから、幸せになってほしい。ただ笑って、頭によぎることは全て幸せに基づくものであってほしい。煩わしいものは全て本人に届く前に消滅して、その存在さえ知られないといい。耳に聞こえる声、触れる人の思いは全て愛ある優しい、大切にしたいものであってほしい。全部がまふまふさんを支えるものになるものであってほしい。そして守るものになってほしい。何よりも自分を愛せたらいい。

 

事実は残酷で、だからリアルで、冷たくて優しい。

好きだからえらいとか、何かが得られるとかそういうのじゃない。重荷じゃなくて、知ってほしい。寄りかかっていいと知ってほしい。もっと思っていいと思う。絶対に大丈夫なことが、そう思えることが少しでも増えてほしい。知ってほしい。わかっていてほしい。絶対はある。大丈夫。おまじないじゃない。錯覚じゃない、幻影じゃないただの事実が増えていくといい。

 

 

 

まふまふさんはすごい。強い。

だからこんな風に届かなくていい思いをつらつら書くのは要らないよなと思いつつも書いてしまうのは書かないとわたしの気が済まないからだ。

自分で不自由にした好きに長く悩んでいた。まふまふさんにしか向いてなかった今思えば盲目的だった好きが、たくさんの対象に分散されていろんな形になった。憧れの好き お友達になりたいの好き もっと届いてほしい好き 誰にも教えたくない好き  言葉を当てはめられない好き。わたしが不自由にした雁字搦めの好きは、本来もっと素直で直感的で不意なもので明白で。もっと自由で単純でいいんだと気づいた。でもだから脆弱なものだなぁ。

わたしは、とんでもない面白い世界がこの地球には他にもいっぱい転がってることを知った。視野が広くなったし、世界を見る視点が変わった。のに、それなのに、いやそのおかげでまふまふさんは本当にすごいしやばいしとんでもない人だという思いがより一層強まっている。

そう思えた時、より強く、なぜ伝わらないんだと思うようになった。名前を言っても通じなくて、こんなに好きなのに存在すらわからなかった時よりももっと明確で地に足のついた気持ちで、本気で、心からまふまふさんがこの世界から愛されてほしいと思った。世界が早く見つけてくれないと。見逃す人がいてはならないんだと思うようになった。

 

注目される音楽がたまたま明るい曲調だったり、その穏やかな口調や雰囲気から、「明るくて前向きな曲を作っている人」というイメージを持たれることが多くなっているという事実を知った時、めちゃくちゃびっくりした。もちろんその逆の印象もまだまだある。でも一番多い印象は「よくわからない」や「こわい」なのだと思う。

それが悪いという話では全然なく、インターネットはどうしても、そして歌い手というカルチャーは特に踏み込みにくい、プレジャッジもしょうがない世界だし。わたしだってもともと、歌ってみたが嫌いでYouTubeのオススメに現れる度に 人の曲を我が物顔で歌うなんて許せない 偽物だ!と一人画面に向かって怒りを向けていた。でもまふまふさんは本物だった。全部を覆した。世界を変えてくれた。だからやっぱりもっと知られないと悔しいし、おかしい。世界がよくなる大事なことなのに!だってこんなに凄いのに。こんなにわくわくする面白いことをしてる人がここにいるのに。こんなに願っているのに。ちゃんと、届く世界が来てほしいな。

 


そんなふうに思っていた頃、紅白歌合戦の出場が決定した。

本物と偽物は簡単に見分けがつく。覚悟が違うからだ。

恐怖とたたかって今日に立った姿。

マイクとそれを握る右手諸共包帯でぐるぐる巻にされているのを見て、夢からさめたような感覚になった。

痛い。わかっていなかった。

今までただゆらゆらと曖昧にわたしを取り巻いていた何かが急に縁取られ、それに呑み込まれる感覚。

「生きている」と思った。

そう思った瞬間、涙が溢れて止まらなくて嘘みたいに泣いた。こんなふうに泣くことは後にも先にもないと思えるほど本当に力いっぱい泣いた。しゃくりあげて声をあげて、たくさん泣いた。同じ世界でたたかい、強烈に生きているまふまふさんを見て、生きていてよかったと強く、強く思った。

 

 

好きを馬鹿にされて泣いたあの頃が、少しずつ救われていく日々に驚く。

紅白の興奮が冷めやまない1月。紅白前に書いたブログ(脈打つ代わりに花火が上がった - 宝箱に並べるように)を読んで紅白を見てくれたフォロワーからDMが届きました。以下、そのまま載せます。

 

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夜中に読んでめちゃくちゃ泣いた。走ってテッシュを取りに行きながら虚ろな視界でこけたこともずっと一生忘れない思う。

ああ、届いている。ちゃんと届いてる。

こんな言葉をもらっていいんだろうかと思うほど嬉しくて、幸せでたまらなかった。こんな声が多くの人に伝わってほしい。まふまふさんに、まふまふさんを通して繋がっている人に、届いてほしい。

まふまふさんが踏み出したから得られた世界だ。

 


最近のまふまふさんを見て、この時もらった「雪解け水のような人のあたたかさの中にいる人」という言葉が深く心にスッと落ちた。ああ、まふまふさんにはきっと春が来たんだな。今が春なんだな。まふまふさんが閉ざして纏っていた鎧が雪解けのように少しずつ、溶けて剥がれ落ちて、等身大のまふまふさんに近づいているのかなと思う。

あの時のまふまふさんは立ち止まれなかった。何もかもが信じられず、世界中が敵だと思って、ひとりになった。気を張って休む暇もなく怪我をしながら痛いのも傷ついてないふりをして、すごいスピードで険しい地を踏みしめてきた。新しい道を作ってきた。友の叶えられなかった夢を、使命を背負った。そんな姿を見ていると、もしまふまふさんが立ち止まる時は「まふまふ」を辞める時なんだとわかった。まふまふさんはずっと脇目も振らず走り続け、恐ろしいほどの重圧とたたかっていた。いつ崩れてもおかしくなかった。

 


最前線を走り続けながらもずーっと心は立ち止まって過去に縋り何度も後ろを振り返ってきたまふまふさんが、全てを受け入れて前を向いて生きていこうとしている。あの頃は見ることができなかった未来を見据えている。何かを許せるような、何よりも自分が許される自信が無い故にずっと塞いでひとりで生きてきた日々が思い出になろうとしているのかもしれない。少しずつ、少しずつ、この世界に、自分の人生に、あたたかさを見出しているのかなぁ。そうだといいなぁ。

 

不安定な足下で死への恐怖とたたかっていく運命。

たたかうものが少しでも減るといい。苦しい思いをしなきゃいけないことなんてない。

 

「ライブが嫌いなんて言いながらこんな景色を望んでいたのかなぁ」

自分に向けられた無数の光を見渡して「宝石みたいだ」と言ったまふまふさんを見て、この景色を絶対に忘れないと誓った。

紅白歌合戦前、今までとは全く違う大衆の目に突然触れることになることを、「怖いなって思うけど、嫌だとは思わない」と教えてくれた強く頼もしい背中。

たまに口にする自らの先天性のものを否定し、人生を批判するような言葉が痛かった。でも、

「ボクが生まれてから、つらかったこともあったけど、なんか、ちゃんと繋がってるんだなって思った。」

東京ドームで静かに、でも確かにそう語ってくれた言葉が嬉しくて仕方がなかった。

「ずっと世界中に嫌われてると思ってた。だけどそんなことなくて。すごくあったかかった。」

「こんなにたくさんの人がいたんだな」

 

「ああ  僕はどうしても僕のままみたいだけど」

まふまふさんは自分を抱きしめてあげられたのだと思う。人のあたたかさを知って、自分の思いを向けた先にたくさんの人がいると知って、自分という"人"を受け入れた。誰よりも自分のことが許せなかったまふまふさんはきっと、ずっと自分を傷つけて生きてきた。そんな傷を隠すように覆った厚い瘡蓋の役割の、冷たくて固い雪が少しずつ、そのぬくもりを通してじんわり溶けていったのかもしれない。

 

過去の自分に語り掛けるような場面が増えたなと思う。こんな未来が待ってるよって だから怖がらなくていいんだよって。

怯えて泣いていた自分を未来に連れて行くような。

ライブで過去の曲を歌う途中、時折振り向いて大きなスクリーンに映るMVの中の自分を見上げるまふまふさんの姿は、過去の自分と対話しているように見える。あの時、許せなかった何か 欲しかった言葉 素直になれなかったこと たたかっていた感情。曖昧過ぎるからなかったことにできる、でもその時に確かに抱いていたどんな思いにも目を合わせて、見守って、肯定して、そこに、ステージに連れてくる。

どんなものでも整理整頓されていないと気が済まなくて、道理に合わないものは排除してしまいたいような、生きている証拠である矛盾を愛することができない雑音にまみれている。

そんな世界で、全部自分だって言ってくれてるようで、もうそれだけで大丈夫だと思った。

 


過去現在未来、全ての自分を責め続けるような言葉に溢れていた。触れられることを拒んでいるような、たったひとりきりでたたかっていたまふまふさんの音楽の中に他者を感じられるようになった。時間を感じられるようになった。ひとりで過ごしてきた暗い部屋の扉が開いたような。そんな歌詞を聞いた時、わたしたちや過去の自分をまふまふさんの世界に入れてくれたんだなと思った。

 

リスクを背負って表に立ったこと。

CUTの表紙で初めて顔を顕にした時、まふまふさんは今この姿を見てほしいんだなと思った。他のいつのどの姿でもない、今だったんだな。

東京ドームライブ全世界無料生配信、紅白歌合戦出場と、届ける対象・確実に届く対象の規模が広くなっていった。心の底から強く、まふまふさんの思いが一人でも多くの人に届いてほしいと思った。

 

 

「今」が全てで明日には何もなかった日々が過去になりつつある。

まふまふさんは活動の日々を「夢を見ている」と表現したけど、まふまふさんを見ている時、わたしもまた夢を見ているような気分になっている。

描かれた夢の大きさに圧倒される。それに対して、喜びの裏側で、これが叶ってしまったら、その先はどうなるんだろう。本当に明日は無いんじゃないか。何も無くなってしまうんじゃないかという恐怖が拭えなかった。だから夢がずっと叶える途中であってほしい  ずっとこのまま終わらないでくれ 叶わないでくれと願ったこともあった。

でも、夢が叶っても夢が終わることはなかった。夢が叶ったその先で、まふまふさんはまた夢を描いた。

まふまふさんから不意に差し出される未来の話にはまだ慣れなくて、受け取ろうとするとこれは夢だろうかと思ってしまう。涙が零れてしまう。

こんな未来が来たよ。過去のわたしは想像できなかった。

 

 

数年前まで、「まふまふって何?人間?」って本気で問われたことは1回や2回どころじゃなかった。

話す時に恥ずかしくなって、でも恥ずかしくなるのもなんか恥ずかしくて、、みたいな。大人に馬鹿にされることもあった。葛藤というか、好きなのにそれを大きな声で好きと言えない悔しさ自分の弱さというか、なんかいろいろごちゃ混ぜで悔しかった時期もあった。でももう「まふまふ」って言葉を口にしたら普通に伝わる。当たり前に伝わることが夢かと思うくらい本当に嬉しくて。あの時悔しくて泣いてた自分に会いに行って好きになってくれてありがとうって伝えたい。絶対大丈夫だから、大丈夫だよって伝えたい。本当に、想像できないくらいすっごい未来が待ってるよ!って教えてあげたい。信じないだろうなぁ ほんとに、こんな未来が待ってるなんて。こんなにも幸せをもらって生きているよ。

 

まふまふさんの音楽は、どんな時もずっとそこにいてくれた。誰にも言えない気持ち、たぶん本当は自分がいちばん向き合ってあげなきゃいけない、大事にしてあげなきゃいけない気持ちたちをわたしたちは知らないうちに目を逸らしてしまっていたり、忘れかけてしまったりしていると思う。だからまふまふさんの音楽を、言葉をきいた時にはっとするし、涙が出るんだと思う。

部屋の隅で膝を抱えて、涙を流しながら聴いた日もあった。そんな過去の自分と手を繋ぐことができるのはいつでもまふまふさんの音楽があるからだ。今じゃ忘れかけてしまっている、あの時も必死に生きていた自分のことを思い出せるのはまふまふさんの音楽が架け橋になっているからだ。

再生ボタンを押せばまふまふさんがその時に閉じ込めた温度や呼吸、叫びが鼓膜に響く。その瞬間、あの時の自分が今の自分の中に入ってくる。大丈夫。生きている。今日まで生きてきた。

過去は変わらない。変わらない過去が、なくならない事実が、消えない音楽が大きな力になっていること。音楽は宝箱で、変えられない過去は宝物だ。

 

まふまふさんの曲を聴く度、よくこんなものが書けるなと思う。新曲を出せば、まだ新しいものを出せるのかと思う。

書くことは生きることだと誰かが言った。

当たり前だ。この世界で書くことなんて無くて、書くことなんて、尽きない。世界は動き続けていて、常に変わり続けている。そんな世界でわたしも、彼も、息をしている。

 

まふまふさんが音楽にだけは嘘を吐かないでいてくれるから救われている。

まふまふさんは別に嘘吐きじゃない。謙虚で超がつくほど真面目で苦しいくらい優しい。だからまふまふさんは何も言ってくれない。

「心にあった感情はひびのひとつも書き残す未来」

「傷つけあった後悔も胸の痛みも零したくはない」

まふまふさんが音楽に嘘をつかない人で本当に良かったと思う。さみしさや怒り、物足りなさ、小さな喜びも、痛みも、矛盾も、分からなさも、許せなさも、後悔も、葛藤も、変化も全部吐き出せる場所があって、それが音楽でよかったと思う。

それを音楽を通して気づける世界でよかったと思う。

どうか、音楽が裏切らないでくれるといい。音楽だけは。


初めて、まふまふさんの声でこの世界を知った時。この世界の音を聴いた時、水の中みたいだと思ったことをずっと覚えている。今でもそう思う。イヤホンを着けて、再生ボタンを押せば周りの音の響きが鈍くなって、目の前に広がる景色は揺れて、ぼやけていく。確かな形は何ひとつ見せない。でもこの声だけ、はっきりと聴こえる。突き刺すような無色の叫びが、思いが耳に、この胸に届く。

 

綺麗な音でふわふわ優しく話す声はわたあめみたいだなぁと思う。きらきらひらひら動いてきらめく姿は星みたい。派手に現れて、大衆の目を奪って、なのに消える時は一瞬で静かに。そんな花火のような人だなぁと思う。

曲に乗っていない時の声は、ひとつひとつ丁寧に確かめるように言葉を置いていくようで、小さくて、優しすぎて、触れたら割れてしまいそうで、でも確かで、どうしたらいいのか分からなくなった。

何度も聞いてきた声なのに、未だに綺麗すぎて消えてしまえそうで。でも何よりも芯があって優しくて強い。その音で紡がれる言葉は本当にそうなってしまう魔法のような力があった。お守りでもあって、言霊よりも強く確かで、どこにもない、ここだけの音だ。

 

まふまふさんはここにいる。どんなことも突然変異で起こることじゃない。根を張っている。夢じゃない。全てが繋がった道の上に確かに立っている。軌跡を辿っている。

 

見えている。まふまふさんの生きている証を、泣きたくなるようなまふまふさんだけのきせきの景色をこの目で見ている。

きこえてる。「生きてるよ」って声が。優しい声も綻んだ声も震える声も消えそうな声も苦しい声も突き刺す声も冷たい声も軽蔑の声も絶望の声も祈る声も、

全部生きている証だった。

生きてる叫びが、この耳に確かに届いている。

 

誰よりも夢見たいと願いながら、誰よりも夢を捨てたいと願った人の歌を聴いている。

誰よりも死を恐れて、誰よりも死を望んだ人の歌を聴いている。

"生きる"を選択し続けた人の歌を聴いている。わたしも、"生きる"を選択し続けたからだ。

できるなら、ずっと

 

何もかも抱きしめていきたい。何ひとつ忘れたくない。

水中から、花火が上がった。

生きていると知った。生きることを知った。

伝わってほしいと祈る。

 


どうか音楽に抱きしめられますように。

世界に、抱きしめられますように。