布告

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2023.壮絶な人生の上に、まだ壮絶な日々を重ねてまでまふまふさんがここで生き続けるのは叶えたい夢があるからだ。音楽が全てだからだ。譲れないものだからだ。

誰かに明け渡してしまえば楽かもしれないものを全て自分の中に閉じ込めて、その一つひとつに目を合わせて紡いで音に乗せる。放つならその全てを自分の手によってでありたい音楽の攻撃力は凄まじいなと思う。広大な音の上に散りばめられた言葉は今まで培ったであろう巧緻な表現を駆使した徹底的な自己否定、自我への呵責、それらを他者にさえも乞う故の、愛への猜疑。

些細なことでも創り出す世界の全てに意味を与えて存在させることを続けることは疲れる。費やした脳と時間。それ以上に削るように消費した勇気とどうか気づいてほしかったものが、届かなかった時、嘆く時間は長く虚しい。届かないなら、存在していても誰にも知られないなら、価値など無いと やめてしまいたくなる。それが電波に乗ってどこへでも届き得るものなのだから尚更。でもそれをまふまふさんはやめなかったからどんな時の活動も信じられる。どんな歌詞も嘘じゃないと分かる。

 

 

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2024.02.09『壮絶な人生の上に、まだ壮絶な日々を重ねてまでまふまふさんがここで生き続けるのは叶えたい夢があるからだ。』それが"幸せ"へ繋がるものであったらいいなと今思ってしまうのは、間違いなのだろうか。

まふまふさんは歌えないんだと思ってた。自分を傷付けるナイフばかりが鋭利になっていって外の声を遮断して 自分が悪い全て悪いってたぶん本気で思ってすぐに謝るところがまふまふさんの、嫌で間違った優しさだった。今回限りじゃない ずっと。

音楽で昇華するその危うさにずっと惹かれていたのだと思う。やっぱり音楽はまふまふさんが生きている場所だった。見え隠れする飾りのない思いや衝動を必死に掻き分けて手にした時に幾度も思った。だからこれが音楽でさえ言えなくなったら、と恐れていた。

分かりにくくさせる難解さがまふまふさんの音楽みたいなとこあったと思うし、それがすごく好きだった。でも時にお願いだからはっきり言ってくれって祈るように願って苦しんだ。はっきり言われない時間は言ってしまえば半殺しみたいでじりじりと皮を剥がされるようで刺されるより痛かったし、徒労に終わることを恐れて、その奥底に手を伸ばしていくのを諦めること。わかった気になってしまうこと。そして明後日の方向からまた自分が傷付けてしまうことが容易に想像できて本当に怖かった。

 

「そもそも誰に向けて書いてるのかと考えた時に、もっと自分のために書いてもいいんじゃないか、それをいいと思った人が聴いてくれたらいいじゃんって、今はそういう気持ちになっているんです。これからはリミッターを外した音楽を作りたいなって思っています。」

「自己満足って言われたら、間違いなくその言葉が正しいです。でももう、ためらわない。」

(CUT12月号巻頭ロングインタビュー)

歌えないんじゃなかった。歌わなかったんだな。ずっとセーブしてくれていた。

こうなのかな...って言える余地がないくらい「言ってくれる」音楽を待っていたんだと思う。シグナルより、もっと強烈で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かっこいいな〜〜〜〜〜!!!!!

もうだめだここまですみませんかたいしおもいしすみませんだが、新曲かっこよすぎるやんけ  聴いた瞬間ビリビリする、痛くて痺れて強烈な鋭利さを前に認めたくないと思ってしまうくらいの強烈な「かっこいい」が溢れ出す。その音を聴いて身体の奥底が共鳴して叫び出すような。その興奮の裏側で深い意味や背景を思い返してこんなこと思っていいのかなと思う、そういう苦しみをも味わわせてくれるこの音楽が、まふまふさんにしか書けない音楽なんだと思う。予測できる収まりの良いものじゃなく、触ったら棘が刺さって血が出るような、そんな音楽。これが彼の人生なんだと思う。

こんな音楽をずっと聴きたかったんだと思う。ただ素直に強く、自分はこの曲を聴くために生きてきたんだと思った。そんな音楽だった。本当に本当にかっこいいです。

聴かれるべき音楽だと思う。強く。誰かを助ける音楽になると思う。届きますように。

 

「もうきれいな自分、白黒はっきりしてる自分でなくてもいいんじゃないかと思ったし、そうじゃない自分もいることを出そうって思った。ちゃんと『自分はこういうやつです』って言って、『でも次からはこうなりたくない』ってメッセージを伝えたい」

あの時こう言ってたのに とか言わないよだって全部本当だった。でも "ここで話した限りじゃない"と言ってくれた。全部を分かったなんて言わない  分かってないことを知っておくよ。でも想像もしすぎないでおくこと。それがわたしの戒めです。

「わたしも生きてるよ」って胸を張って言えるように、生きていきたい。生きてるひとのその思いが、“本物”が“生きてる”が、壊されないように、消されないように。死んでも殺さないように、生きていたい。

「自分のすべてだから、何が起きても音楽をやめることはないと思います」

絶望の音楽じゃないと思う。視界が塞がれたような泥沼の中で足掻いて誰より我武者羅に生きるを選んでくれている音楽だと思う。ならばいっそ死んでしまいたい じゃなくてその先に「かまわないから生きていたい」を感じるのも、ただわたしが自分を救うために思っていたいだけかもしれないけれど。

 

一生不幸でかまわない - まふまふ - YouTube

20231018

 

誕生日が近づくとどうしたらいいかわからなくなるくらい胸がいっぱいになって、全部が特別で嬉しくなれる。なんて不思議でなんて幸せなことなんだろうと思う。

0:00になった瞬間、電波に乗って放たれるまふまふさんに向けられたたくさんの想いに触れると自分のことのように嬉しくて、涙が溢れて、その一つでも多くがまふまふさんに届くといいなと思う。


もうこれ以上書くことないなと思うくらいその時抱いた感情は言葉を充てることができる限り、全て書いてきた。見返せないような野暮なこともたくさん書いた。この宝物のようなきせきをとにかく忘れたくない一心だった。

こんなに大事な日なのにいざ迎えると何を書いたらいいのかわからなくなって、もう一時間で今年の10月18日が終わろうとしている。思いが次から次へと溢れてたぶんこれは誕生日が終わってしばらくするまで続くのでもう整理するのは諦めて、上手く言葉にできなくても、それでもやっぱり今日は大切な日だから。

 

 


いろんなことがあったなと思う。大きなことも小さなこともどれもが大切で生きる喜びだった。ただ好きだという気持ちだけで、確かに重ねてきた日々が今こうして振り返った時にこんなにも大きな宝物になっているなんて思ってもみなかった。自分ではない誰かの人生追いかけることがこんなにも幸せなのだと知った。何気なく振り返った過去ががこんなにも煌めいていて嬉しいなんて。

 

見えない部分が多いと、思いばかりが募って余計なことを想像して心配したり語ったつもりになって気持ちよくなったり優越感に浸るための縋る手段として消費しようとしてしまっていたり。そしてそれらを見えないところで謝って許されている気でいるような愚かなことをしてしまう。

そんなに頑張らないでって何度も思った。立ち止まれないような目まぐるしいスピード感で生きる姿。情報を急かす声に「ごめんね」って謝っている時や倒れてしまった時。本当は立ち上がれないほど心身ともに破壊されたような状態で、それでも点滴を打って、元気の前借りをして、ぎりぎりの状態でやりきった初の東京ドーム2日間。罪を着せられるような日々が続き、こんな理不尽なことは無いのに、それでも「ちゃんと証明できてから胸を張って活動したい」と長い期間水面下でたたかっていたこと。

見えてない部分が多いから、本当はもっともっといろんなところで頑張っているんだと思う。その多くを最後まで知ることはできないのだろう。だからせめて、何も知らないのに、いや何も知らないからこそ、頑張らないでって簡単に言うことはやめにしようと思う。

 

わたしはまふまふさんを好きになった当初、誤解されることが怖くて誰にも話さず隠れて応援していた時があった。「自分ひとりで好きを大事にすればいい」と誰にも傷つけられないように少し塞ぎ込んできたこと。でも本当はずっとわかってほしかった。こんなに素敵な人に出会えたこと。わたしが見てきたきせきを誰かにも見てほしかった。こんな人がいるんだよ、こんなに凄いんだよ、ここが良いんだよって伝えたかった。

それが今叶っている。その幸せも全部まふまふさんに教えてもらったな。それはまふまふさんが今日までずっと頑張り続けてくれたおかげで、証明してくれたおかげだ。まふまふさんのおかげで生きていることがこんなにも幸せです。もう大丈夫だ。

 

 

 


ライブ映像を見ながら記憶のメリーゴーランドみたいなものが脳裏で動き出して、巡ってくる記憶のどれもが大切すぎて涙が溢れた。わたしの人生がこんなにも忘れたくない出来事で溢れていて、誰にも譲りたくないと思える想いがあるのは、大切で大切でたまらないのは、全部まふまふさんに出会えたからだ。そう思った時、終わらないでほしいと強く思ってまた涙が溢れてしばらく止まらなかった。

まふまふさんのおかげで頑張ろうと思えたことがたくさんある。頑張る理由になったことがたくさんある。頑張ってよかった、生きていてよかったと心から強く思えた日が何度あっただろう。

まふまふさんがいなかったら乗り越えられなかったことがたくさんある。大丈夫だと踏ん張れたこと。本当にたくさん助けられた。こんなにも力になるのだと知った。

 

 


2023.10.18

過去を繋いで、迎えた今日。明日からの日々はどんな過去になっていくんだろう。今日がずっと遠い過去に思えるくらい、続いていけばいいな。遠い未来で今日を振り返れますように。

自由に、やりたいことを思う存分やれますように。あなたの歩く道がどうか優しい光の差すあたたかい場所でありますように。幸せでありますように。

 

誕生日おめでとうございます。

“生きる”を選び続けてくれてありがとう。

ずっと、頑張ってくれてありがとう。


何一つ忘れません。大好きです。

夏の青空の下に「神様いそうだな」って

 

初めてそらるさんのライブに行った。

 

本当に良いものを見ると、みんなもこれを知ってはやく大丈夫になってほしい!と思う。伝わってほしいという気持ちが強く強くなっていく。

本当は、大丈夫にする力じゃなくて守る力が欲しい。なんか本当にみんな抱えすぎだと思う。抱えてることが悪いんじゃなくて、そうさせてる世界が許せねーよ。世界、変えたいなーでもわたしにはそんな力が無いからと諦めてみたり、いろいろ考えて行き着いた結論結局自分は「何もできない」という無力を自覚して部屋の壁にもたれ掛かっててボーッと泣いたりした。でも全部受け入れていくしかないのか、と思えるくらいには大人になった。でも無条件に心が動かされる良いものを見ると、受け入れという皮を被せて黙らせておいた諦めが起き上がってなんとかしたい!だろ!!!って叩き起こしてくる。

ライブから帰ってきてから、みんながそらるさんの歌を聴いて、そらるさんという人に触れて、はやく大丈夫になってほしい!!!!という思いが強く強くなっている。

 

全部抽象的な話になってしまってると思うし、正直もうライブの記憶は光に包まれすぎて見えないので、とにかくライブ中に思ったこと、終わってから今日まで考えたことを書きました。とにかくライブに行ってよかったということです。前置きが長いですが難しい話をしたいわけではなく、本来はもっと単純なことを簡潔に言うという能力が欠如しているので大変読みにくいと思いますが、ただそのまま受け取ってほしいです。

 

 

15周年を迎えたそらるさんのライブ、クリスタリアルスカイ -ORCHESTRA-   すごく、良かったです。

本当に良くて、わたしなんかの言葉を添えるのは余計でしかなく(でも書きます)、本当に誰が見ても絶対に良いライブでした。だから全員見てほしいです。

15年歌い続けた人のライブです。しかもオーケストラです...贅沢を全瞬間から感じて本当に貴重な経験でした。

 

 

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ライブの日が近づいてきた頃、自分にとってそらるさんはどういう存在なのだろう。自分はそらるさんをどういう人だと思っているのだろう。と、ふと考えた。いざ会いに行くと決まって、たぶんそらるさんをどんな気持ちで見たらいいのかちょっと分からなくて不安だったのだと思う。

自分が抱いた違和感やわからないこと、曖昧なことは何かと根拠や理由を付けて納得したくて、毎日そのための資材を探しているような日々に生きている。わからないと立ち止まってしまい、どんどん身体が傾いて地面に膝を着いて動けなくなってしまうくらい、自分の思いに自信が無い。信頼できない。特に好きという思いに関しては紆余曲折を経て落ち着いたり、でもまた不安になったりを繰り返している。好きを好きのまま永遠でいられるようにと、好きの終わりを恐れるあまり、ずっとと言い切れるための理由を探すのに必死になっていたのかもしれない。

少し前に、わたしはたぶん同じ星の下で生きる人たちとこんなところが好きだよねって同じ気持ちを確認するよりも、同じ空の下だけど違う星の下を選んで生きている人たちとこんなところが好きなんだ こんな世界があるんだよって話がしたいんだなぁってわかった。

でもそう思いながらもっとちゃんと理由を知りたい!納得したい!わかりたい!愛したい!のだということも感じていた。望んでいるのにそれができていないことにほんの少しだけモヤモヤしていた。

 

この世界に片足を突っ込んだその瞬間からそらるさんの声はわたしの中に存在していた。だからいつも知っている声だった。知っている人だった。ずっと大好きで大切な人だ。でもライブに行って、今までわたしはそらるさんの何を見ていたんだ と思うほど、そらるさんを好きな人が見ている景色が鮮明に見えて、そらるさんへの好きが死ぬほどわかってずっと泣いてる。みんなが愛してる星のそれぞれの道、わたしも愛したい応援したいの気持ちが一層強くなったし、それができると思えた。

 

ライブから帰ってきてから、あの時自分の目に映った情景を思い出して、いろんな思いが駆け巡っては何度も泣いている。

そらるさんは"わかっている"人だ。

そらるさんは知っている。

客席に座る一人ひとりが生きていて、それぞれ違う人生があって、いろんなものを抱えて今を迎えていること。ここにいること。

いえない日々や、情けなくて無かったことにしてしまいたい過去も、恥も。隠れて泣いた日も誰も信じられない心も、たまに訪れる全部終わりにしてしまいたい真っ暗闇の心も。傷つかないために押し込んだ叫びも。本当は貶されるべき思いも。汚れも。許されたい思いも。助けても声も。

一つとして同じものは無いその人だけの複雑なものを抱えた一人ひとりが、確かにそらるさんの声に救われて、ここまで来たこと。たくさん抱えて会いに来ていること。伝わってほしいこと。愛していること。言葉にできない思いも、その葛藤もそらるさんは全部知っているしわかっている。そう確信のように思える景色と時間の中にいた。

だからそらるさんもステージにいるのだと思った。「俺はここで歌うから」と言ってくれるのだと思う。ちゃんと見てきたよ と歌で伝えてくれる。

ステージの上でそらるさんが歌い、伸ばされたその手の先に自分がいる空間に今わたしはいるのだと自覚した瞬間、抱えてきたものが繋がった気がした。

ステージ上の階段から降りてステージ袖まで来て、客席をよく見てわたしたちに向かって歌っている顔を見たらわかった。伝わっていることが伝わってきた。そして、伝わっていることはこんなにも幸せなのだと思った。言葉にされたわけじゃない。でもわかった。そらるさんは全部、歌で伝える人だと思う。

光のもとで歌うそらるさんの姿を見ていたら、同じように今この瞬間そらるさんを見ている会場の人たちの心が自分の心に入ってくるような気がして心がいっぱいになった。嬉しくて心を抱きしめたくなった。

そらるさんのことが好きな人の気持ちが本当にすごくわかった。

今日ここに来てよかったと思った。

そらるさんに出会えてよかったと思った。

こんな人に惹かれないはずがないと思った。

 

ステージ上手と下手を行き来するためにオーケストラの前を縫うように歩いて何度か転びそうになったり、歌詞を間違えて笑ったり、MCで口が回らなくて適当な言葉でそのまま進めて和やかな笑いに包まれるそらるさんは愛されている姿で、嬉しくてたくさん笑った。

マイクを客席に向けてイヤモニを外して頷きながら、自らも口ずさみながら客席の歌を聴いているそらるさんの優しい笑顔や満足そうに言う「よくできました」は愛している姿だった。

 

ライブ中、本当に全部が嬉しくて、ずーっと幸せだった。

 

 

熱中して何かを追いかける、所謂オタクにわたしがなったきっかけは紛れもない歌い手という存在だった。それからというものは、いつも好きがそばにあった。好きのおかげで生きていた。熱中する好きが無かった頃の生活なんて思い出せも、想像すらできないほどに毎日、多くのものを好きから受け取っていた。

でも"好き"から受け取ったものに、「救われた」と思うことは少なかった。

受け取った時に湧き上がったプラスな感情を上手く言葉にできない甘えで「救われた」と表現してしまったことは幾度かあって、でもその度にこの感情は「救われた」、なのか?と疑問に思い、でも当て嵌る言葉も見つけられないままでいた。

そんな中でも唯一と言えるくらいそらるさんを見ている時はちゃんと素直に「救われた」と思うことがあった。それはそらるさんの言葉や生き方。自由でありのままの自分を愛し、愛されている姿。そんなそらるさんに救われることが何度かあった。それでもまだ自分にとっての"救い"の輪郭がぼやついたままだった。

どうしても遠い存在だから、そんなこと?って思われてしまうような小さなことにすごく救われることがある。それだけでずっと生きていける、大事に大事にしていることがあったりする。時が経ってある時それが蔑ろにされたり(本人はそんなつもりないし全く悪くない)すると、過剰に落ち込んで、自分が信じた全てが否定されたような気持ちになってしまう。本当に勝手に。そらるさんはきっとそういうのも全部わかっているのだなと思った。自分の何気なく発した何かの中にそれぞれが大事にしたいものがあることも、これが誰かの大切かもしれないということもわかっている。そらるさんは思い出したように示してくれる。ちゃんとここにあるよと言ってくれる。すごいなぁと思う。

 

わたしにとって"救い"とは、誰かを本当の意味で信じられることなのだと、そらるさんを見て気づいた。わたしはこの日、そらるさんのことを心から強く信じられたのだと思う。

ずっとこの人と生きていくぞと思った。

同じ時間を共有している。こんなにたくさんの人がそらるさんの歌を聴きに来ている。会いに来ている。すごいことだ。そらるさんと生きているということだ。

 

 

 

『夏の青空の下には「神様いそうだな」って。』

8月5日、青空の下には神様がいた。

そらるさんが、「歌うことが好き」という気持ちを今日も新鮮に持っていること。15周年を迎えたこと。

あの日少年だったそらるさんが少年の自分を捨てずに大切に愛して、連れて生き続けている。受け止めてくれる寛大さと包み込んでくれるような穏やかさを持ちながら自由でありのままを愛されている姿。

世界を優しく、美しく歌い続けてくれてありがとう。この青く澄んだ世界の中心にいるのはそらるさんだ。

 

大丈夫さワンダー いつまででも傍にいるよ

世界中が恋するような夢を見せよう

永遠に覚めない鳴り止まない

響かせていこう この歌を

そらるさんの歌が空のように高く、海のように広く続いていきますように。誰かの救いになりますように。

 

神様がいた夏の空をわたしはずっと忘れない。

春を抱きしめて

 

描かれる夢は大きくて眩しすぎて、これが叶ってしまったらここまで続いてきた夢が無慈悲にさめてしまうのかもしれないという不安と背中合わせで過ごしてきた。

この世界にまふまふさんがいる明日は無いのかもしれなかった。

まふまふさんを見ている時、そういう危機感を常に持ってしまうくらい、本当にまふまふさんはいつでも死んでしまうような生き方だった。

 

「またね」が無い時、「ばいばい」や「さよなら」の時はもう次が無いのかもしれないと思った。「またいつか」と次が明示されなかった時は、その"いつか"はもう二度とこないのかもしれない と悟った。大袈裟に聞こえるかもしれないけど実際、まふまふさんはいつだって"その時"に全てを終わらせていた。だからどんな今日も明日には何も無かった。

 

 

 

大人になることは汚れることだろうか。あの頃感じていた確かな、忘れたくないはずの何かを簡単に忘れてしまえることだろうか。大人は、あの頃ずっと求めていた強く揺るがない何かを知っている安定した存在であるのだろうか。

春は憧れの象徴だ。素直に受け取るのを憚られるような眩しさに包まれた季節だ。喜びと寂しさに涙を流す季節だ。そんな春に手が届き始めているような気がしている。

 

ライブでまふまふさんがちゃんと笑っているのを初めて見た時、まふまふさんってこんな風に笑える人なんだと思ったのをよく覚えている。光が弾けるような笑顔で、きらきらしていて、お星様みたいだと思った。

 

人は生きている。人は矛盾を抱えて生きている生き物だ。それをわかっておくことが大事だと思う。

人が変わるのは、裏切るためじゃない。突然変異でもない。全てがそうとは言えないが、変わらないために変わるのだと思う。守りたいものがあるから、変わる。変わることはたたかっている証拠だと思う。生きている証拠だ。

生きることを邪魔してはいけない。あの時と言ってることが違うだの昔の形ある証拠を引っ張ってくることに一生懸命な声に耳を傾けないでいい。同情しなくていい。ただ生きていってほしい。

 

受け入れることは諦めることではない。受け入れることは許して、抱きしめることだ。大人になることはきっと、受け入れることだと思う。春は愛することだ。

 

 

 

周りがどれだけ慰めようと許そうと、当人が本当にそう思えなければ全て嘘に聞こえ、その思いを素直に受け取れない。届かない。

何かを思いやって抱いた感情を、偽善なのかもしれないと自らを省みる言葉を聞いた時、この人は心があって正しく、臆病で優しい人だと思った。

 

 

立ち止まることはこわい。二度と進めなくなってしまう気がするから。一度踏み出してしまったのなら惰性でも、とにかく前に進み続けなければならないという思いが心を縛る。分からなくても足を動かし続ける。そうでないとこの世界では生きてないみたいに扱われてしまう。

失ったもの、零してしまったもの一つひとつに目を合わせて、ごめんねって謝る暇はない。そんなことをしていれば置いていかれてしまう。世界から自分がいなくなってしまう。納得できない思いも、なんとか理由を探し出して取り付けて、はい綺麗だよってさよならできるように。さほど重要じゃないことは、無かったことにして、平気なふりをして、大丈夫にして二度と人に聞かせないように。でも聞こえる声には耳を傾けて。自分の声には蓋をして。そうやって生きていく。生きていかなければ間に合わない。

 

前に進むために捨てたものや、抱えきれなかった願いに押しつぶされる前に自分を抱きしめてあげられたらいい。後ろめたいこと、それが正当な理由を与えられない悪事だろうが、誰にも言えない闇のような過去であっても、どうでもいい。そんなのどうだっていいから、幸せになってほしい。ただ笑って、頭によぎることは全て幸せに基づくものであってほしい。煩わしいものは全て本人に届く前に消滅して、その存在さえ知られないといい。耳に聞こえる声、触れる人の思いは全て愛ある優しい、大切にしたいものであってほしい。全部がまふまふさんを支えるものになるものであってほしい。そして守るものになってほしい。何よりも自分を愛せたらいい。

 

事実は残酷で、だからリアルで、冷たくて優しい。

好きだからえらいとか、何かが得られるとかそういうのじゃない。重荷じゃなくて、知ってほしい。寄りかかっていいと知ってほしい。もっと思っていいと思う。絶対に大丈夫なことが、そう思えることが少しでも増えてほしい。知ってほしい。わかっていてほしい。絶対はある。大丈夫。おまじないじゃない。錯覚じゃない、幻影じゃないただの事実が増えていくといい。

 

 

 

まふまふさんはすごい。強い。

だからこんな風に届かなくていい思いをつらつら書くのは要らないよなと思いつつも書いてしまうのは書かないとわたしの気が済まないからだ。

自分で不自由にした好きに長く悩んでいた。まふまふさんにしか向いてなかった今思えば盲目的だった好きが、たくさんの対象に分散されていろんな形になった。憧れの好き お友達になりたいの好き もっと届いてほしい好き 誰にも教えたくない好き  言葉を当てはめられない好き。わたしが不自由にした雁字搦めの好きは、本来もっと素直で直感的で不意なもので明白で。もっと自由で単純でいいんだと気づいた。でもだから脆弱なものだなぁ。

わたしは、とんでもない面白い世界がこの地球には他にもいっぱい転がってることを知った。視野が広くなったし、世界を見る視点が変わった。のに、それなのに、いやそのおかげでまふまふさんは本当にすごいしやばいしとんでもない人だという思いがより一層強まっている。

そう思えた時、より強く、なぜ伝わらないんだと思うようになった。名前を言っても通じなくて、こんなに好きなのに存在すらわからなかった時よりももっと明確で地に足のついた気持ちで、本気で、心からまふまふさんがこの世界から愛されてほしいと思った。世界が早く見つけてくれないと。見逃す人がいてはならないんだと思うようになった。

 

注目される音楽がたまたま明るい曲調だったり、その穏やかな口調や雰囲気から、「明るくて前向きな曲を作っている人」というイメージを持たれることが多くなっているという事実を知った時、めちゃくちゃびっくりした。もちろんその逆の印象もまだまだある。でも一番多い印象は「よくわからない」や「こわい」なのだと思う。

それが悪いという話では全然なく、インターネットはどうしても、そして歌い手というカルチャーは特に踏み込みにくい、プレジャッジもしょうがない世界だし。わたしだってもともと、歌ってみたが嫌いでYouTubeのオススメに現れる度に 人の曲を我が物顔で歌うなんて許せない 偽物だ!と一人画面に向かって怒りを向けていた。でもまふまふさんは本物だった。全部を覆した。世界を変えてくれた。だからやっぱりもっと知られないと悔しいし、おかしい。世界がよくなる大事なことなのに!だってこんなに凄いのに。こんなにわくわくする面白いことをしてる人がここにいるのに。こんなに願っているのに。ちゃんと、届く世界が来てほしいな。

 


そんなふうに思っていた頃、紅白歌合戦の出場が決定した。

本物と偽物は簡単に見分けがつく。覚悟が違うからだ。

恐怖とたたかって今日に立った姿。

マイクとそれを握る右手諸共包帯でぐるぐる巻にされているのを見て、夢からさめたような感覚になった。

痛い。わかっていなかった。

今までただゆらゆらと曖昧にわたしを取り巻いていた何かが急に縁取られ、それに呑み込まれる感覚。

「生きている」と思った。

そう思った瞬間、涙が溢れて止まらなくて嘘みたいに泣いた。こんなふうに泣くことは後にも先にもないと思えるほど本当に力いっぱい泣いた。しゃくりあげて声をあげて、たくさん泣いた。同じ世界でたたかい、強烈に生きているまふまふさんを見て、生きていてよかったと強く、強く思った。

 

 

好きを馬鹿にされて泣いたあの頃が、少しずつ救われていく日々に驚く。

紅白の興奮が冷めやまない1月。紅白前に書いたブログ(脈打つ代わりに花火が上がった - 宝箱に並べるように)を読んで紅白を見てくれたフォロワーからDMが届きました。以下、そのまま載せます。

 

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夜中に読んでめちゃくちゃ泣いた。走ってテッシュを取りに行きながら虚ろな視界でこけたこともずっと一生忘れない思う。

ああ、届いている。ちゃんと届いてる。

こんな言葉をもらっていいんだろうかと思うほど嬉しくて、幸せでたまらなかった。こんな声が多くの人に伝わってほしい。まふまふさんに、まふまふさんを通して繋がっている人に、届いてほしい。

まふまふさんが踏み出したから得られた世界だ。

 


最近のまふまふさんを見て、この時もらった「雪解け水のような人のあたたかさの中にいる人」という言葉が深く心にスッと落ちた。ああ、まふまふさんにはきっと春が来たんだな。今が春なんだな。まふまふさんが閉ざして纏っていた鎧が雪解けのように少しずつ、溶けて剥がれ落ちて、等身大のまふまふさんに近づいているのかなと思う。

あの時のまふまふさんは立ち止まれなかった。何もかもが信じられず、世界中が敵だと思って、ひとりになった。気を張って休む暇もなく怪我をしながら痛いのも傷ついてないふりをして、すごいスピードで険しい地を踏みしめてきた。新しい道を作ってきた。友の叶えられなかった夢を、使命を背負った。そんな姿を見ていると、もしまふまふさんが立ち止まる時は「まふまふ」を辞める時なんだとわかった。まふまふさんはずっと脇目も振らず走り続け、恐ろしいほどの重圧とたたかっていた。いつ崩れてもおかしくなかった。

 


最前線を走り続けながらもずーっと心は立ち止まって過去に縋り何度も後ろを振り返ってきたまふまふさんが、全てを受け入れて前を向いて生きていこうとしている。あの頃は見ることができなかった未来を見据えている。何かを許せるような、何よりも自分が許される自信が無い故にずっと塞いでひとりで生きてきた日々が思い出になろうとしているのかもしれない。少しずつ、少しずつ、この世界に、自分の人生に、あたたかさを見出しているのかなぁ。そうだといいなぁ。

 

不安定な足下で死への恐怖とたたかっていく運命。

たたかうものが少しでも減るといい。苦しい思いをしなきゃいけないことなんてない。

 

「ライブが嫌いなんて言いながらこんな景色を望んでいたのかなぁ」

自分に向けられた無数の光を見渡して「宝石みたいだ」と言ったまふまふさんを見て、この景色を絶対に忘れないと誓った。

紅白歌合戦前、今までとは全く違う大衆の目に突然触れることになることを、「怖いなって思うけど、嫌だとは思わない」と教えてくれた強く頼もしい背中。

たまに口にする自らの先天性のものを否定し、人生を批判するような言葉が痛かった。でも、

「ボクが生まれてから、つらかったこともあったけど、なんか、ちゃんと繋がってるんだなって思った。」

東京ドームで静かに、でも確かにそう語ってくれた言葉が嬉しくて仕方がなかった。

「ずっと世界中に嫌われてると思ってた。だけどそんなことなくて。すごくあったかかった。」

「こんなにたくさんの人がいたんだな」

 

「ああ  僕はどうしても僕のままみたいだけど」

まふまふさんは自分を抱きしめてあげられたのだと思う。人のあたたかさを知って、自分の思いを向けた先にたくさんの人がいると知って、自分という"人"を受け入れた。誰よりも自分のことが許せなかったまふまふさんはきっと、ずっと自分を傷つけて生きてきた。そんな傷を隠すように覆った厚い瘡蓋の役割の、冷たくて固い雪が少しずつ、そのぬくもりを通してじんわり溶けていったのかもしれない。

 

過去の自分に語り掛けるような場面が増えたなと思う。こんな未来が待ってるよって だから怖がらなくていいんだよって。

怯えて泣いていた自分を未来に連れて行くような。

ライブで過去の曲を歌う途中、時折振り向いて大きなスクリーンに映るMVの中の自分を見上げるまふまふさんの姿は、過去の自分と対話しているように見える。あの時、許せなかった何か 欲しかった言葉 素直になれなかったこと たたかっていた感情。曖昧過ぎるからなかったことにできる、でもその時に確かに抱いていたどんな思いにも目を合わせて、見守って、肯定して、そこに、ステージに連れてくる。

どんなものでも整理整頓されていないと気が済まなくて、道理に合わないものは排除してしまいたいような、生きている証拠である矛盾を愛することができない雑音にまみれている。

そんな世界で、全部自分だって言ってくれてるようで、もうそれだけで大丈夫だと思った。

 


過去現在未来、全ての自分を責め続けるような言葉に溢れていた。触れられることを拒んでいるような、たったひとりきりでたたかっていたまふまふさんの音楽の中に他者を感じられるようになった。時間を感じられるようになった。ひとりで過ごしてきた暗い部屋の扉が開いたような。そんな歌詞を聞いた時、わたしたちや過去の自分をまふまふさんの世界に入れてくれたんだなと思った。

 

リスクを背負って表に立ったこと。

CUTの表紙で初めて顔を顕にした時、まふまふさんは今この姿を見てほしいんだなと思った。他のいつのどの姿でもない、今だったんだな。

東京ドームライブ全世界無料生配信、紅白歌合戦出場と、届ける対象・確実に届く対象の規模が広くなっていった。心の底から強く、まふまふさんの思いが一人でも多くの人に届いてほしいと思った。

 

 

「今」が全てで明日には何もなかった日々が過去になりつつある。

まふまふさんは活動の日々を「夢を見ている」と表現したけど、まふまふさんを見ている時、わたしもまた夢を見ているような気分になっている。

描かれた夢の大きさに圧倒される。それに対して、喜びの裏側で、これが叶ってしまったら、その先はどうなるんだろう。本当に明日は無いんじゃないか。何も無くなってしまうんじゃないかという恐怖が拭えなかった。だから夢がずっと叶える途中であってほしい  ずっとこのまま終わらないでくれ 叶わないでくれと願ったこともあった。

でも、夢が叶っても夢が終わることはなかった。夢が叶ったその先で、まふまふさんはまた夢を描いた。

まふまふさんから不意に差し出される未来の話にはまだ慣れなくて、受け取ろうとするとこれは夢だろうかと思ってしまう。涙が零れてしまう。

こんな未来が来たよ。過去のわたしは想像できなかった。

 

 

数年前まで、「まふまふって何?人間?」って本気で問われたことは1回や2回どころじゃなかった。

話す時に恥ずかしくなって、でも恥ずかしくなるのもなんか恥ずかしくて、、みたいな。大人に馬鹿にされることもあった。葛藤というか、好きなのにそれを大きな声で好きと言えない悔しさ自分の弱さというか、なんかいろいろごちゃ混ぜで悔しかった時期もあった。でももう「まふまふ」って言葉を口にしたら普通に伝わる。当たり前に伝わることが夢かと思うくらい本当に嬉しくて。あの時悔しくて泣いてた自分に会いに行って好きになってくれてありがとうって伝えたい。絶対大丈夫だから、大丈夫だよって伝えたい。本当に、想像できないくらいすっごい未来が待ってるよ!って教えてあげたい。信じないだろうなぁ ほんとに、こんな未来が待ってるなんて。こんなにも幸せをもらって生きているよ。

 

まふまふさんの音楽は、どんな時もずっとそこにいてくれた。誰にも言えない気持ち、たぶん本当は自分がいちばん向き合ってあげなきゃいけない、大事にしてあげなきゃいけない気持ちたちをわたしたちは知らないうちに目を逸らしてしまっていたり、忘れかけてしまったりしていると思う。だからまふまふさんの音楽を、言葉をきいた時にはっとするし、涙が出るんだと思う。

部屋の隅で膝を抱えて、涙を流しながら聴いた日もあった。そんな過去の自分と手を繋ぐことができるのはいつでもまふまふさんの音楽があるからだ。今じゃ忘れかけてしまっている、あの時も必死に生きていた自分のことを思い出せるのはまふまふさんの音楽が架け橋になっているからだ。

再生ボタンを押せばまふまふさんがその時に閉じ込めた温度や呼吸、叫びが鼓膜に響く。その瞬間、あの時の自分が今の自分の中に入ってくる。大丈夫。生きている。今日まで生きてきた。

過去は変わらない。変わらない過去が、なくならない事実が、消えない音楽が大きな力になっていること。音楽は宝箱で、変えられない過去は宝物だ。

 

まふまふさんの曲を聴く度、よくこんなものが書けるなと思う。新曲を出せば、まだ新しいものを出せるのかと思う。

書くことは生きることだと誰かが言った。

当たり前だ。この世界で書くことなんて無くて、書くことなんて、尽きない。世界は動き続けていて、常に変わり続けている。そんな世界でわたしも、彼も、息をしている。

 

まふまふさんが音楽にだけは嘘を吐かないでいてくれるから救われている。

まふまふさんは別に嘘吐きじゃない。謙虚で超がつくほど真面目で苦しいくらい優しい。だからまふまふさんは何も言ってくれない。

「心にあった感情はひびのひとつも書き残す未来」

「傷つけあった後悔も胸の痛みも零したくはない」

まふまふさんが音楽に嘘をつかない人で本当に良かったと思う。さみしさや怒り、物足りなさ、小さな喜びも、痛みも、矛盾も、分からなさも、許せなさも、後悔も、葛藤も、変化も全部吐き出せる場所があって、それが音楽でよかったと思う。

それを音楽を通して気づける世界でよかったと思う。

どうか、音楽が裏切らないでくれるといい。音楽だけは。


初めて、まふまふさんの声でこの世界を知った時。この世界の音を聴いた時、水の中みたいだと思ったことをずっと覚えている。今でもそう思う。イヤホンを着けて、再生ボタンを押せば周りの音の響きが鈍くなって、目の前に広がる景色は揺れて、ぼやけていく。確かな形は何ひとつ見せない。でもこの声だけ、はっきりと聴こえる。突き刺すような無色の叫びが、思いが耳に、この胸に届く。

 

綺麗な音でふわふわ優しく話す声はわたあめみたいだなぁと思う。きらきらひらひら動いてきらめく姿は星みたい。派手に現れて、大衆の目を奪って、なのに消える時は一瞬で静かに。そんな花火のような人だなぁと思う。

曲に乗っていない時の声は、ひとつひとつ丁寧に確かめるように言葉を置いていくようで、小さくて、優しすぎて、触れたら割れてしまいそうで、でも確かで、どうしたらいいのか分からなくなった。

何度も聞いてきた声なのに、未だに綺麗すぎて消えてしまえそうで。でも何よりも芯があって優しくて強い。その音で紡がれる言葉は本当にそうなってしまう魔法のような力があった。お守りでもあって、言霊よりも強く確かで、どこにもない、ここだけの音だ。

 

まふまふさんはここにいる。どんなことも突然変異で起こることじゃない。根を張っている。夢じゃない。全てが繋がった道の上に確かに立っている。軌跡を辿っている。

 

見えている。まふまふさんの生きている証を、泣きたくなるようなまふまふさんだけのきせきの景色をこの目で見ている。

きこえてる。「生きてるよ」って声が。優しい声も綻んだ声も震える声も消えそうな声も苦しい声も突き刺す声も冷たい声も軽蔑の声も絶望の声も祈る声も、

全部生きている証だった。

生きてる叫びが、この耳に確かに届いている。

 

誰よりも夢見たいと願いながら、誰よりも夢を捨てたいと願った人の歌を聴いている。

誰よりも死を恐れて、誰よりも死を望んだ人の歌を聴いている。

"生きる"を選択し続けた人の歌を聴いている。わたしも、"生きる"を選択し続けたからだ。

できるなら、ずっと

 

何もかも抱きしめていきたい。何ひとつ忘れたくない。

水中から、花火が上がった。

生きていると知った。生きることを知った。

伝わってほしいと祈る。

 


どうか音楽に抱きしめられますように。

世界に、抱きしめられますように。

 

ブルーライトが消えた先

 

「大丈夫」の言葉が、勝手に大丈夫にされることが慰めの皮を被った痛い針だということを知った。伝わっていないんだな。また知らないうちにしていた期待が崩れ落ちていく音を聞いた。

「大丈夫?」って訊かれるより、大丈夫だなって何も言われない方が嬉しかったりするのかもしれない。好きなアイドルが、「わたしってそんな弱く見えるかな」って早口で笑いながら零しているのを見た時、もう勝手に大丈夫じゃないって決めつけるのはやめようと思った。

 

 

考えても変わらないことばかり考えては、いろんな感情が込み上げて、全部わからなくなったりしている。

 

 

 

まふまふさんのことを、画面の中(向こう側)の人=一生届かない人 だと知らず知らずのうちに思っていたような気がするし、実際そうなのだと思うし、向こう側にいるまふまふさんもわたしたちのことをそう思っていたのかもしれない。

いずれにしても、ブルーライトが消えた瞬間に全ては終わるし、わたしたちはひとりになる。その先で何が起こってるかなんてお互い知らない。


東京ドームの映像を見ながら、同じ空間にいるはずなのにまふまふさんがとても遠くに感じて無性に泣きたくなった。ステージと観客席との間には計り知れないほど距離があるように感じて、それが良いとか悪いとかの話ではなく、ただただそうなんだなと思った。

嬉しいこと、見せたいもの。知ってほしいこと。届かなくていいけど、思ってほしいこと。わからないでいてほしいこと。知らないでほしいこと。もっと話したいこと。諦めたくないこと。知りたいこと。素直な思いが生まれる度に、できないことを確認して、手のひらを空っぽにしてしまう。何も握れなくしてしまう。

本当か嘘かわからないことを本当っぽく言ってみても、目に見えなかったら意味はなくて。実際に確認できない不確かすぎるものは、一瞬にも満たないまやかしだったりする。形のないおまじないで何とかなることはこの世界では少なすぎて、涙も出ない乾いた失意を数えながら生きているような、夢も希望もない色褪せた現実。ごめんねって少女の自分に謝りながら生きてる。

 

 


まふまふさんのことをできるだけ「まふまふ」さん本人のことを見るように、そこだけはブレないようにしようと少し前に思ってから、自分の思い込みを通して彼を見ることはやめてきたつもりだけど、主観というものは引き離せないもので、時々、いやかなり、何ならツイートする度に、これはちゃんとまふまふさんのことを見れているだろうかと不安になる。だからこれを書いている今も怖いし、新しい言葉を足しては全部消したくなっている。何度も全部分からなくなっている。

 

とにかく生きてるなって思いたくて。

好きになった当時こそ、まふまふさんのことを神様や天使だと思っていた。漠然と、存在してると思ってなかったし、あの時は本当の意味でまふまふさんが「生きてる」と感じたことがなかった。どんなことがあっても涙なんて流さないロボットのような人だとも勝手に思っていた。けどまふまふさんの見えてきた部分と変化・自分自身の成長と変化を通して、まふまふさんは人間なんだなと思うようになって、わたしは今、まふまふさんの人の部分が好きなんだと思った。まふまふさんの変わりゆく、変わらない思いにずっとわたしはわくわくして、どきどきしている。

 

 

 

2022.06.11東京ドーム初日表。

光の渦から生まれて、白いモヤを取り巻いて、純白の衣装に身を包んだまふまふさんがステージ上に出てきた時、「え〜...神様じゃん」と思わず呟きそうになった。綺麗だった。初日の感想は本当にそれしか出てこないくらい心から綺麗だと思った。まずいと思った。またまふまふさんが神様に戻ってしまう。待ってくれ。青の衣装の相方の隣で白と黒のバイカラーの衣装を纏う背中を見て、この人はまた世界を全部ひとりで背負おうとしているんだなと思った。

 

2022.06.12活動休止前最後東京ドーム裏。

公演は悲しいとか寂しいが思っていたよりなくて、それ以上にとにかく楽しくて幸せで、そんな自分に驚いていた。東京ドームから出て、興奮も冷めないまま人混みに揉まれて歩きながら通知を開いてツイートにリプライを送った。まだ繋がっている気がした。

めちゃくちゃ泣きながら会場を後にする小さな女の子や、終わって写真も撮り終わって何をするでもなくただ東京ドーム周辺に座ってなかなか帰らない人達を見て「あー最後なんだな」と漠然と思った。

翌日、活動休止前最後の新曲の投稿ツイートを当たり前のように待っていたら、まふまふさんからのツイートはいつまで待ってもなくて。ただ静かにひっそりと音楽だけがのこされていた。「あ、もうなんだ」と昨日が一気に遠い夢になった。

 

 

 

人間は自分を大きく偽ることも小さく偽ることもできると思う。いちばん良いのはそのどちらでもなくありのままそのままで生きるということだというのはみんなわかっている。できたらしてる。そのままで生きるということは本当に難しくて、等身大という言葉が眩しすぎてちょっと苦手だ。自分が自分である方法を毎日必死に探している。

自分に嘘をついて皮を被って生きていると、知らぬ間に依存してだんだんそれが接着剤のように剥がせなくなっていく。そしてそれは本当の皮膚を侵食して心の中にまで入ってきて、いつの間にか自分になってしまう。本当の自分と言い聞かせてきた誰にも壊せないはずの思い描いた理想の自分は自分の手によって失われ、いつしか手の届かない距離に行ってしまう。本当の自分というのは、意外と弱くて脆い。それでいてとても不確かだ。

 

全部本当に勝手に思っていることだけど、まふまふさんがなりたかった姿に、今まふまふさんがなれているのかなと、本当は違うんじゃないかなと不安に思ってしまうことがあること。それは努力とか、そういうのじゃどうにもならない部分。運命なんて言いたくないけど、他者との関わりで初めて存在する自分は、どうやったって他者の認識で象られるし、それに沿って生きていかなければならない部分は必ず生じる。でもそれに縛られずに自由に生きてほしいなと思う。

まふまふさんに自由であってほしいと願いながらそれが叶わない、こちら側が縛ってしまっているジレンマや、本人が絶対に悪くないこと それが大きくても小さくても簡単に謝ってしまうこと。本当に届いてほしい言葉は埋もれて、溢れかえるのは薄っぺらい恥の切り接ぎ。ごめん と思う。ツイキャスYouTubeの生配信のコメント欄はいつからかずっと見れなくなってしまったし、まふまふさんの綺麗な「ありがとう」が信じられなくてつらかった。ありがとうと言われる度にごめんと謝った。まふまふさんは罪を背負う必要なんてどこにもなくて、罪を背負って生きていかなきゃいけないのはわたしたちの方だ。

どうにかしたいという思いが強くなっていくばかりで何も出来ない自分の無力さを自覚するだけだった。

まふまふさんはすぐに独りになってしまう。遮断してしまう。だから目にする情報に偏りがあって、マイナスな情報ばかり彼の心に住み着いていくのかなと思う。インターネットが居場所というのは怖いことだなと思う。無制限で、そこにある“自由”というのは無法地帯のような惨状だ。時にはそれが眩しく見えるけど、ずっと居るとなると消費されていくばかりだろう。

だからまふまふさんは意図的に距離を取っているように感じる。

 

まふまふさんは謙虚で、超がつくほど真面目で苦しいくらい優しい。だから、何も言ってくれない。

まふまふさんは隠すのが上手だ。傷付いてないふりを当たり前のようにする。でもたまにわかる。少しかなしそうに笑うとき。そうやって一息ついた後ごめんねって小さく言う時。明るい言葉を自分に言い聞かせるように言う時。自分が叩かれるのは嫌じゃないよ 何も思わないし、気にしてないよって言葉。「こんな自分」って自分で自分に傷を付ける時。傷付いてないふりを上手にさせているのはわたしたちだ。上手になっても傷がなくなるわけじゃない。痛くなくなるわけじゃない。ぎゅうぎゅうと押し殺した心の叫びがいつかまふまふさんを襲う。夜が怖い。ひとりでいる時。音楽をしていない時。狙ったように襲わないで。どうかそんな瘡蓋になれない見えない傷も痛みもまふまふさんには優しくなってあたたかく撫でてくれるものに変わってくれることを、そんなありえないことを願う。

 

自分の中のいちばん大切なものが周りにも大事にされるかどうかは、けっこう博打みたいなものだと思っていて。“周り”の対象が家族や友人のような身近な存在ならまだ希望はあるかもしれない。だけどインターネットという規模の確立していない無限な世界だとどうだろうか。伝わるように言葉を投げても向かう先はわからず、正直自分がどこに投げているのかもわかっていないからあまり力強く投げられないし弱すぎても足下に落ちてただ自らの目で確認するだけになる。そもそも着地点が近くだろうと遠くだろうと、それを正しく拾い上げてくれる人がいるかなんてわからない。

「スピーチみたいにみんなの前で喋っているというよりは1対1で話しているような感覚」だけど、「画面の向こうにどれだけ人がいるってなかなか伝わりづらかったりする。どのくらいいるのかな  本当はあんまりいないんじゃないかな って思っちゃうことってあって」

信じるしかないのだなと思う。不確実すぎるこの世界で、それでも納得して自分の足で前へ進んでいくためには。計り知れない信頼を纏った期待とそれをいつでも捨ててしまえる潔い諦めと。

 

 


見えないものは、あると思われない。

まふまふさんは影で傷付いて影で頑張って影で泣く。そうすべきだと思っているからなのか。そうしたいからなのか。そうせざるを得ないのか。そうさせているのか。

東京ドーム裏、エグゼキューションで「ボクは誰  わからない」と歌ったあと、まふまふさんの足下から大きくて濃い影が映し出された。影にいるまふまふさんはいつも見ているまふまふさんじゃなかった。

 


仕方がないことだけど、その時に知れないのはつらい。あの時、実はって打ち明けられても、もうあの時には戻れない。

東京ドーム、「湿っぽく終わらせない」の言葉の通り、楽しい明るい気持ち、前向きな気持ちで終われた。意外と大丈夫なのかもなと思った。

でも2ヶ月後に配信された当日の映像を見て、全然そんなわけなかったことを知った。何を見ていたのか。あんなにわたしたちにかなしい暗い気持ちにさせないようにしておいて、自分は何度も涙を堪えていた。気付かれないように必死に。観客席からは分からないほど小さく。本当にずるい。

かっこ悪いところを見せたくないまふまふさんはすごく人間らしいなと思う。器用に生きているように生きるまふまふさん。その時に知れなかったのはつらいというか悔しいけど、泣くのを我慢して、笑顔が一瞬崩れるのを見た時、まふまふさんはここにいると思った。

 

 


こんな自分がまふまふさんを応援してていいのかと思うことが多い。前回少しだけ書いたけどそれこそ東京ドームに行く前なんかは何十回も思った。こんな自分がまふまふさんに会いに行っていいのか。こんな自分が好きだって意思表示していいのか。

まふまふさんはたたかってきた人だ。死ぬほど頑張った人だ。死ぬ気で生きている人だ。

わたしは、ぬるま湯に浸かって、命を削るほど見たい夢もなく、惰性で生きて、情熱を他人から貰って、泣いたり笑ったりそれで生きたつもりになっている愚かな人間だ。生きてなんかないと思う。そんな人間が近づくなんて失礼だと思った。もっと本気で、強くて、生きてる人に届いてよ。手を繋いでよ。

面白いこと、本物だと思える人やものに出会うと、出会えた喜びと同時にまふまふさんにも届いてほしいなと思う。同じ想いを持っている人、それが届いて、ひとりじゃないんだって思えるといいな。

ひとりになる回数が減るといいなと思う。こんな世界も悪くないなと思える最高な何かにたくさんたくさん出会って欲しいなと思う。やりたいや楽しいの気持ちが尽きないといい。音楽が裏切らないでくれるといい。どうか本当の本物と、生きてる人と、手を繋げることを願っています。笑えるよね最悪だよね でも気持ちいいよね ってこの世界を乾いた最高の笑いで囲んで見下ろしてほしいと思う。

やりたいこと全部やって、全部ぶち壊してほしい。

 


わかっているつもりだけど、「“つもり”に過ぎないよね。全然わかってないよ」って自覚させられる瞬間。いつかはさめる夢をもっと覚悟を持って見るべきだと。ガツンと殴られたみたいな感覚になる。わたしは何を見てきたんだ!何をしてるんだ!と自分に叱りたくなるような。

今にも倒れそうな足取りで命を削って歌っている姿を見た時。あの時、本当は消えようとしてたことを知った時。包帯でマイクと一緒に巻かれた右手を見た時。ぎりぎりの、限界を超えた不安定な一歩を繰り返して階段を上る姿を見た時。本当は泣いていたことを知った時。理不尽に傷付けられていたことを知った時。

 


我儘だけど何も知らないからこそ、強く思う。勝手にいなくならないで!好きでしょうがなくて、奇跡みたいなこの夢の日々をずっと大切にしたくて、失った未来のことを考えると泣いてしまうような、なのに今意外と普通に生きられてるような。何なんだよ!と思う。自分でも。

何も言わずに消えようとしたことが今まで何度もあったことを明かされた時、本当にぞっとしたし何も気づかなかった、知らなかった自分に腹が立った。今回の休止も東京ドーム2日目のMCで発表しようとしてたと聞いて、おい待ってくれよと思った。まじで先に伝えてくれてよかった。

ブルーライトが消えたスマホの黒い液晶に映った自分の手を見て、ここだけが繋がる場所で、こんな小さくて狭い手のひらから無限に繋がる。なのに何もできなくて、これを失ったら全てが無くなる。なんて世界を生きてるんだと思った。

結局本当なんてわからないし、仕方がない。自分と自分以外。他人はどこまでいっても他人でしかなくて、仕方ない。誰のせいでもない。わかったふりは大嫌いだけどわからないからってわからないままはつらい。何もできないのはつらい。こうなんだろうなこうかもなを自分に繋げて、そうやって生きていくしかない。

行き過ぎたくらいの覚悟を持って生きてる、そういうところが好きだし、憧れている。でももう少しだけ話してほしい。力になんかなれないだろうけど少しだけ背負わせてほしい。

 

 

 

東京ドーム、表の日はTwitter表示をデフォルトにして、裏の日はダークモードに戻した。紅白の日は白組だから、デフォルトの白表示にした。

何気ない日々に特別を生み出してくれたり、何気ないことを特別に変えてくれたり。本当に毎日幸せで楽しくて。こんなに貰ってばっかりでいいのかなって不安になるくらい本当に幸せで。

ずっと変わらず、何かが終わる度に強くなっていくのは好きになってよかったという思いで。投稿された歌ってみたを再生した時に流れ出したギターの音であーまふまふさん好きそうだなぁって思うこととか、この言葉あの曲でも使ってたなって重なることとか、Twitterに投稿された写真を見てまふまふさんがあんまり着なさそうな服だなぁ珍しい〜って思うこと。時間を超えて点と点が繋がるような。あぁわたしは本当に、好きになった日から今日までずっとまふまふさんのことを好きなんだなってその度に気づけることが嬉しくて。

 

18時を楽しみに待つことも、夕方〜夜の間Twitterの通知を必ずチェックする毎日も、ツイキャスかなYouTubeかなって両方を行き来することも今までが嘘だったかのようにぱったりと無くなった。


いろんなことを考えるし、休止になってから前以上にいろんなことにまふまふさんを重ねるようになった。まふまふさんだったらどうするだろう。優しさやあたたかさに触れると、これをまふまふさんに体験してほしかったなと思うし、良いことがあると、まふまふさんにもこんな良いことがあってほしいなと思う。

 


選ばなかった方を不正解で選んだ方が正解だなんて簡単には思えなくて、選ばなくてよかった こっちでよかったって思える何かが起こるのを待たないと、自信を持って前に進めなかったりする。でもそれがあったらあったで、残酷な事実だったり、知らなくていいことだったり、知らないままの方が綺麗な人間であれたのに と落ち込んだり。真っ直ぐ立って、後ろを振り返らないで前に進むことは本当に難しい。

自由になる人はそんな選択に何度も何度も出会ってきたんだろうなと思う。たくさん決断してきたんだと思う。

傷付けられなくても、優しい人だから自分から傷付いてしまうこともあるのだろうなと思う。何かを選んだ時、何かを捨てたなんて思わなくていいし、優劣だなんて思わなくていい。罪なんか何にも感じなくていい。偽善なんてどこにもないから。まふまふさんは何をしても大丈夫。好きを選んで大丈夫。やりたいことをやって大丈夫。自由で大丈夫。

 

 

心に響かないでと願う時がある。雑音なんかに耳を傾けないでいい。

まふまふさんがまふまふさんだけの、見たい夢を見れるといいなと思う。

 

幸せになりたくて何がいけないんだろう。夢を見ることの何がいけないんだろう。

誰だって愛されたいし、傷つくのは怖い。死ぬのはこわいし、大切な人を失うのはもっと怖い。明日が憂鬱な日の夜は永遠であってほしいのに日が昇るのはそういう時だけ異常にはやいし。

死ぬとか失うとか必ずやってくる朝のこととか、避けられないどうしようもないことを考えるだけで頭の中が真っ暗闇に埋もれて、もう全てが無意味に感じて、いっそ終わらせちゃおうよとか全部捨てたくなっちゃうのに。

避けられなもの、どうしようもない仕方のないこと以上に、何とかできるはずの意図的なナイフによって体を穴だらけにして生きている。おかしい。当たり前ってこうだっけ?人ってこんなに傷付け合う生き物だっけ。生きるって傷付くことだっけ。生きるって我慢することだっけ。人生って今日を怯えながらこなして眠りにつくことだっけ。

できるだけ大丈夫であれるように。できるだけ大丈夫と思えるように。血を流しながら、「こんなの普通だよ」って思っちゃってる。美化して、美談にして消費してほしくない。それで消化したようなつもりになってほしくない。自分のせいじゃないのに無意味に傷つかなきゃいけない理由なんてどこにもないのに。

本当に、優しい世界になってほしいと思う。なんでだよ と怒りを通り越してもう生きることに希望を失ってしまうような出来事を見る度、優しい人が優しいままでいられることを祈る。

もっと許し合えるし、信じ合えるはずなのに、ちょっと変われば許せなくなって、過剰に疑って決めつけてそれの繰り返し。本当か嘘かわかんないこと、自分にとって都合のいい形に変えて語って気持ちよくなって、あとはどうでもいい。

難しいことばかりで、正しさってなんだろうなと思うし。偉そうなことを言ってみてもそれに見合ってない自分を見て、気持ち悪くなって自分のことがまた嫌いになるくらい。でも生きることはもっと素晴らしいものだと思う。わたしたちは幸せになっていいはずだ。まふまふさんが好きだって言った世界をもっと好きでいたい。好き以上に好きになれるくらい大きな世界にしたい。できると思う。どうか

わたしはたぶんまふまふさんが幸せになることを信じたいんだと思う。諦めたくないんだと思う。

 

 

ほとんどの人が目を逸らすことに目を合わせ続けて、息ができなくなるまで。

「音楽が人生そのもので、それしかない。」ステージ降りたら、配信切ったら死ぬって思いながら舞台に立っている。そうやって、いつもその瞬間に、全てを終わらせている。

わたしはそんな生き方できないから、そんな覚悟がないから、泣いてしまうくらい憧れて羨望している。

 

許されたくて救われたくて消えてしまいたくて。たぶん本当はいつもさみしくて泣いてて。そんな思いを武器にしてぶつけ続けてる。今日もどこかでたたかっている。どれだけぶつけても壊れないから。一生消えないから。

倒れそうになるまで歌う理由。叫ぶ理由。呼吸ができなくなるまで歌う理由。自分で自分を傷つけてしまうまで追い詰める理由。ひとりになる理由。

「ボクは生きているよ」

ブルーライトが隔てる向こう側で響くシグナルはたったひとりきりで叫んでいて、泣いている。抑えきれない衝動と葛藤。音楽にのせられた言えない痛みはわたしの胸を締め付け続けている。何かを求めて意思表示をする「生きてるよ」ってこの音が、声が、この思いが途絶えることがないように、隠されることがないように、消されることがないように。

ただ祈っている。

 

 

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桃色の少女 消滅する乙女

 

少女と永遠は共存できないのかもしれない。

でも絶対に乙女心に罪はない。

 

「本当に、わたしの全てなので  みんなが。」

今日まで隣に立ってきたメンバー全員を見渡して、涙を拭いながらはっきりと言ったこの言葉がこの子の卒業の意味なんだなと思った。

 

桃奈のことを思い出すと、というか「桃奈」という単語を聞くだけで体の力がゆるゆるになって液体みたいにびちゃびちゃになっていくような、そんな感覚を体験してる。簡単に言うと、つまりはわたしは桃奈の亡霊なんですね。不意に桃奈を思い出しては、「桃奈〜〜〜〜〜〜〜〜;;;;;;」って泣き出してしまいそうなそんなオタクなのですが。

先日、桃奈が夢に出てきました。すっごくすっごくかっこよくって。堂々としてて。桃色を纏って桃色に囲まれた桃奈。大きな身振りのダンス。きらきらな笑顔。わたしが見てきたもの。大好きなところ。夢の中でも桃奈はアイドルでした。わたしの夢の中にもわたしが見てきた桃奈はしっかりといて。そしてもう見ることのできないわたしの記憶を繋いだ橋の先にいる桃奈がわたしの夢となって出てきたような、そんな光景だった。

 

桃奈のことを知らない友人に「桃奈っていうアイドルの子が好きで、」って話した時、「“桃奈”って、すごい。アイドルになるためにつけられたみたいな名前だね 」って言われて、たしかに!と思った。そこからわたしは「桃奈」と口にするのが大好きになった。桃奈はすごく誇り高いアイドルだと思う。立ち姿から伝わってくる。

 

 

 

 

 

卒業とか、休止とか、脱退とか、解散とか、真っ白な紙に活字で打ち込まれた文章のあの独特な冷たさと定型文が本当に苦手だ。怖くなってなかなか読めない。

 

卒業については昨年末に話があり、
今年に入って具体的に進めていきました。
アンジュルムハロー!プロジェクトで活動していくうちにたどり着いた、
海外に身を置き歌とダンスを勉強したいという新しい目標。
本人の覚悟と決断は相当なものだと思います。
笠原の新たなチャレンジをメンバー、そしてスタッフ一同、応援したいと思っています。

 

私にとって、アンジュルムがなによりも今の人生の全てです。
大切で、大好きで、アンジュルムがなければ今の私は存在しません。
だからこそ、十代で離れる決断をしました。

 

桃奈は18歳で卒業をした。

桃奈の卒業文は読みたいと思った。読まなければならないと思った。読み終わったあと、なんだか言葉にできない感情が胸を包んだ。悲しいでもなく、嬉しいでもなく。ああ、桃奈は飛び立とうとしてるんだな と思った。

 

 

背中を合わせて涙が止まらなくて歌えなくなるメンバーの反対側で真っ直ぐファンの方を向いて笑顔で歌う桃奈を見た時、この子はなんて強い子なんだろうと思った。

桃奈が見送る側だった卒業公演。リーダーや先輩メンバーが下を向いて泣きながら歌う中、自分を落ち着かせるようにゆっくり胸を叩いて、ふっと前を向いた桃奈の頬に涙はなかった。しっかりした優しい笑顔を卒業するメンバーに向けて歌った。あの時、自分の胸を叩いた桃奈はどんなことを考えていたんだろう。

 

 

知れば知るほど、なんて大人っぽい子なんだろうと驚いた。なのに笑った顔は赤ちゃんのようにあどけなくて。いろんな表情を見る度にそんな表情をするのか と驚く。初めて見るものだった。わたしは桃奈に出会って初めて、本当の意味で少女の顔を知ったのだと思う。

なんてあどけなくて、なんて大人っぽくて、なんて愛しくて、なんて可愛らしくて、なんて寂しくて、なんて儚いんだろう。

桃奈はふと、誰にも出来ない表情をする。ほんの一瞬。簡単に見逃せる程の一瞬。パフォーマンス中というよりも普段の桃奈の方がそういう時が多いように感じる。それを見た瞬間、なんだかぎゅっと胸が苦しくなった。

桃奈は子供でいることに拘る。

「わたしは永遠の子供」

「考え方も...情熱とか、あと欲張りすぎるところも全部子供で」

桃奈は永遠の子供。嘘だね  桃奈はわたしよりずっとずっと大人だし、かっこいい。

でも桃奈の、何を見ているのか  何を考えているのか わからないあのふとした瞬間の表情を思い出した時、あの表情は子供の桃奈にしかできないのかな と思った。

桃奈は愛が大きくて本当に立派な子だと思う。桃奈を見るたび、眩しくてこんなふうになりたいと思う。

 

「まだもう少し子供でいたいなぁ」と呟く桃奈はどんな景色を知ったんだろう。どんな瞬間を愛おしいと思うんだろう。どんな感覚を忘れたくないんだろう。何を失いたくないんだろう。

子供でいたいけど、成長は待ってくれない。時間は待ってくれない。不意に目を落とした自分の影はどんどん大きくなるし、周りの自分への扱いは変わっていく。何かに夢中になるのに邪魔する要素が多くなる。純粋なやりたいや楽しいの気持ちで動けていたことに損とか得とか数値化できるような幸せが纏わりついてきて目が逸らせなくなる。永遠のように感じた時間もやがて終わりがくることを知り、いつからか何かを始める時にはもう既に終わりのことばかりを考えてしまうようになる。あの時感じた幸せは埃を被って色褪せてしまう。

 

 

女の子のアイドルに触れた時、なんでこの子たちは卒業するんだろうと思った。この子いいな、と思って調べたらもう卒業していた なんて体験は日常茶飯事だ。なんで卒業しなきゃいけないんだろうと思った。女の子はなんでこんなにもお別れを経験しなければいけないんだろう。なんで新しい道に進まなければいけないんだろう。なんで愛したものから離れなければならないんだろう。頑張って頑張って、人生を捧げてきたものを捨てなきゃならないんだろう。

なんで女の子は、ずっとアイドルでいられないんだろう。

消耗品のようで、永遠なんてないことの象徴のようで、賞味期限がきたらもう要らないよってされているようで、すごくかなしかった。

 

女の子のアイドルは本当に綺麗な時に卒業する。卒業する時に、「本当に綺麗で可愛くなったね」ってみんなが言う。本当に自然と、心から思う。そのことがなんて残酷で、なんて美しいんだろうと思う。熟れた果物みたいに綺麗で仄かな染まり。刹那。なんて破滅的な。乙女の消滅はいつだって。

 

 

初めて女の子のアイドルに心を動かされた日。

テレビで歌って踊るその姿を見て、今まで出会ったことのない胸の熱さに驚いて、気づいたら熱い涙が頬を伝っていた。

わたしが会いたかった女の子。わたしが求めていた女の子。わたしがなりたい女の子。

汗でおでこに張りついた前髪。笑顔よりずっと多い表情。漂う張り詰めた空気。魅せられる興奮。

ここにいたんだ と思った。わたしは闘う乙女を手に入れた。本当に満足だった。

 

 

具体的なことを並べると、「たかがそんなこと」と何も考えてない人に鼻で笑われるのが本当に嫌なのでここでは控えますが、いつだってわたしたちは消費される側なのかなぁ。

そんな風に思ってしまう日が増えたのは確かで。

 

女の子 であること。それが日に日にわたしの呼吸を浅くさせた。どこからか感じる手のひらの中に収まっていなさいという圧。

女の子 の価値を下げられている感覚

簡単で軽率だと思われている感覚

弱くて薄っぺらいと思われている感覚

どこまで行っても消えなかった。

 

だんだん、だんだん、女の子の綺麗な部分を自分で信じなくなってしまった。

 

 

 

 

 

アンジュルムを初めて見た時、なんて騒がしいグループなんだ!と思った。所謂“女の子らしさ”はどこにもなくて、そこにあったのは一人ひとりの強い“人間らしさ”だった。アンジュルムに出会ってわたしは1人の人間としての自由をもらった。嬉しい時は叫んでいいし、許せない時も叫んでいい。全力で歌って、全力で踊って、全力で笑って、全力で喋って、全力で叫んで、全力でふざけて、全力で愛す。時に勢いがすごすぎてハロプロのはみ出しものなんて言われるが、わたしはそんなふうに言われるアンジュルムが大好きだ。でもそもそもアンジュルムは周りがどうとか関係ない。何か言われるなんて気にしない。そんな小さな生き方をしない。アンジュルムは全部が全力だ。全力で自由をしていた。

 

新メンバーが加わり、新体制になることが決まっても、その度に全力で喜んで全力で迎え入れるアンジュルム。本当にあったかくて、元気で、大好きだ。だからいつの時代のアンジュルムも大好きだ。卒業していったメンバーも加入したばかりのメンバーも、本当に大切で全員がアンジュルムだ。こちら側の不安なんて一瞬で吹き飛ばすパワーを持っていて、見てるとこっちまで大きな声で笑ってしまうような大きな幸せをくれるアンジュルムは全てが世界でいちばんの女の子たちだ。

 

アンジュルムを見ているとメンバー全員が本気でアンジュルムを好きだという気持ちがびりびりと伝わってくる。そして共通する思いは、アンジュルムが自分の居場所だから守りたい ではなく、アンジュルムが大好きだから守りたい。アンジュルムを愛しているから守りたい。なんかもうただの好きー!とかじゃなく、戦闘態勢の好きなんですよね。身を燃やす覚悟でアンジュルムにいる。邪魔するやつは全部蹴散らすぞってギラギラした目でこっちを見てくるアンジュルムが最高で好きだ。

 

 

 

「大袈裟かもしれないけど私は、空が綺麗なのも海が好きなのも美味しいご飯が美味しいのも、アンジュルムのみんながいるからです。」

17歳の夏を切り取った写真集に桃奈が書いた言葉だ。この言葉を見て、無性に泣きたくなった。

 

アンジュルムには嘘がどこにもなくて、不器用で全力で、とにかく愛に溢れたそんな真っ直ぐで大きな思いがある。一分一秒をその胸に刻み込むように生きるアンジュルムを見ると、そんな姿が少しだけ切なくて泣いてしまう。永遠を、あげたい。

 

アンジュルムのメンバーの濃く長く跳ね上がったアイラインやダークな色で染められた瞼やギラギラと反射するラメを見る度に あ〜〜女でよかったって思える。貴方も好きなように生きなさいと背中を叩かれたような気持ちになれる。誇り高く生きようと自信を持てる。

長い髪をバッサリ切った桃奈が、真っ赤なリップをつけた桃奈がわたしを強くさせてくれる。

 

桃奈は、そしてアンジュルム

わたしに、女の子は、1人の人間は、強くて、美しくて、尊ぶべき存在であると証明してくれた。

本当に心から、女の子でよかった と思った。じんわり、胸の中に広がって、二本足でしっかり立って大声で叫ばせてくれた説得力のある思い。

女の子でよかった。

 

 

 

 

涙が止まらないのに幸せで、さみしくてたまらないのに愛おしい気持ちに溢れてて。そんな、強いのにどこまでも優しい陽の光を浴びたような時間は、刹那的なあの時間は簡単には作れない。

「可愛い可愛いかっさーちゃん、幸せになってね」とメンバーが泣きながら読んだ手紙が本当に全てで。ああ こんなにも誰かに幸せを願われる子が、女の子で、まだたった18歳でいることに、すごく救われた自分がいた。

 

【18歳の抱負】好きなもの大切なものを見失わない、自分が愛されている事を忘れない。

 

「あと後輩の笠原桃奈ちゃんも尊敬しています。本当にいい関係です! 桃奈って本当にいい人で、人を否定しないんです。人のいいところが見えすぎているからか自分に自信がないみたいなんですが、まったく腐っていなくてポジティブなところがめちゃめちゃ人間として輝いているなって思います。ネガティブをポジティブに変えられる人なんです。相談にものってもらうし、卒業した今でも連絡を取り合っています。全然変わっていないですよ!」

 

“新しい道が見え始めた  だけど君は別の道を選んだ

もったいないけど確かに君らしいね”

 

今日もどこかで桃奈が生きている。自分の足で、歩いている。空を見上げている。それだけで、背中を押された気持ちになれる。

 

 

可愛いものにしか動かない心がある。女の子にしかない特権。可愛いものを見た時の胸の高鳴り、ときめき。いつまでたってもあってほしいと思う。

 

守りたいもののためにはたたかっていい。立ち上がって、自分の声で叫んでいい。時には飛び出したっていい。1人の人間として生きていい。自由に生きていい。

 

桃色は弱さなんかじゃない。ただの可愛いじゃない。

強くて、誇り高くて、大きな愛の、永遠の証明だ。

 

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ねむる夢がさめる日に

 

今とはまた別の、まふまふさんがほんの少しだけいなかった期間。心の整理をしようと、部屋の片付けをした。とにかく気を紛らわすための何かをしなきゃという気持ちだったのかもしれない。わたしの部屋はそれはもうわたしの心みたいにぐちゃぐちゃだった。教科書やプリントの山から中学の頃に将来について書いたアンケートを拾い上げて、「好きな人の歌をずって聴いていたい。」と書いているのを見つけて、そうだよね と思った。まふまふさんと出会った頃だ。まふまふさんのアルバムを久しぶりにスピーカーで流して、「寂しいまま今日を終わらせないから」って彼の声を聞いて、初めてそこで泣いた。そうだ 今日は、まだ終わってない。大丈夫。

 

ひとりで生きていかなきゃいけない

何かに縋って、依存して、そんな不安定な生き方をもうやめにしたい。わたしはちゃんとわたしの足で立っていたい。自分で嬉しいことを見つけて、自分でやりたいことを見つけて、自分で考えて、決断して、前に進まなきゃいけない。

 

3月の終わり。東京ドーム当選祈願をするつもりで行った神社で何故かまふまふさんの幸せを願っていた。

「どうか幸せで、元気で。」

結局これが全てなんだなぁと思う。

まふまふさんはひとりでいる時、どんなことを考えるんだろう。

まふまふさんは毎日、どんな夜を過ごしているんだろう。

息をすることも苦しくて、泣けないくらい悲しくて胸が空っぽで虚しくて。そんな夜を何回過ごしただろう。

明日が来るのが楽しみだって何回思っただろうか。

きっと何にも埋められない漠然とした寂しさをずっと抱えているのかな。

消えちゃいたいな。全部やめたいな って何回思っただろう。

 

綺麗だな  消えちゃいそうだな

どこか遠くを見つめるまふまふさんの瞳はビー玉みたいに澄んでいて、どこまでも続いていく世界があって。まふまふさんは何も無いよって言うかもしれない。でも本当に綺麗で。

 

 

まふまふさんの優しい歌が好きだ。優しくて、でも鋭くて、だけど臆病で、どこかかなしい、救えない歌が好きだ。まふまふさんしか持っていないから。

寄り添おうとしているわけじゃない。救おうとしているわけじゃない。ただひっそり、そこにいてくれる。

居場所を失った気持ちを、感情を、捨てないでいいよ  ここにいていいよ  ここだよって。世界に入れてくれたのはまふまふさんだった。

 

優しい人は、優しくあることは、それだけで幸せだと思っていた。でもそうじゃないことを知った。優しくすることは損をすることでもあると。奪われることであると。優しさは時に自分の道の、自由の邪魔をする。そう気づいた日から優しくあることの意味を疑ってしまう自分がいた。疑って、疑って、疑いながら、でもそんなはずないと信じたかった。だって優しさはあたたかくて柔らかい陽の光のような救いだから。優しい人はそれだけで。

 

まふまふさんはどんな時も優しかった。偽善なんかじゃない。手放しなんかじゃない。弱さなんかじゃない。そんな薄っぺらい、小さなものではかれるようなものじゃない、もっと大きな、何かで代えられるようなものじゃない、本当の優しさ。

優しい人がわたしの中にいること。

それがわたしにとって1番大事なんだと思う。

 

「寂しいまま今日を終わらせないから」

ずーっと寂しがってたまふまふさんが「ボクには何にもない」って言ってたまふまふさんが、寂しいままで終わらせないよって言ってくれたこと。今日がきらきらして見えた。まだ大丈夫だって思えた。期待と嬉しさと小さな不安を抱きしめて泣いた。

 

 

東京ドームまでの期間は時間とやるべきことに追われて、本当に今のわたしなんかがまふまふさんに会いに行っていいのかな  そんな資格あるのかな という思いがずっとぐるぐるとしていて、結構ギリギリな状態で生活をしていた。ああもう無理かも と諦めそうになった時はスマホを持ってトイレに駆け込んで、東京ドーム前の配信を聴いた。まふまふさんの「東京ドームまでがんばるぞ!」の声に励まされて、そうだよまふまふさんががんばってるんだぞわたしもがんばるぞ と思ってちょっと泣いたら現実の世界に戻ってなんとか頑張った。本当に何度も負けそうになったけど、そのたびにまふまふさんに救われた。

 

6月5日。あんなに神社に行ってまで願ったことだったのに、それが叶おうとしているのに、こんなに寂しくなってしまうんだな。人の気持ちってわからない。

通知を開いた瞬間飛び込んできた “無期限の活動休止”の文字。

一瞬心臓が鈍い音を立てて速まったけど、すぐに何でもないように「ああ、そうか おやすみするのかぁ」自分でも驚くくらい冷静に受け入れられた。つもりだったけど、話しているうちにどんどん、どんどん「さみしい」の気持ちに襲われて涙が止められなかった。

事情を知った母親が「大丈夫だよ。きっと前に進むためだよ」と慰めてくれる声を聞きながら、何年も前、 “まふまふ” って人が好きなんだと話した時に、「誰それ」といい顔をしなかった人に、そんなふうにを言われるなんて、なんて素敵で面白いんだろうと思いながら、また泣いた。

前に進むため。わかってる  わかってるけど  こんなにさみしいんだ。苦しいんだ。大好きなんだ。

 

 

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まふまふさんの紅白出場が決まった日。

「まふまふ  紅白」

ありえない単語が並んでいる記事を5度見したあと、泣きながら朝ごはん食べて、母親に「うそでしょ?笑 ほんとに?!?!すごいねぇよかったねぇ。頑張ってるんだねぇ前に進んでるんだねぇ えらいね。頑張ろうって思うね」って言われてもっと泣いたの思い出した。まふまふさんが変えてきた未来。

 

紅白本番、たぶん実感なんて湧かないんだろうなと思いながら、まふまふさんが映るとやっぱり実感は湧かなくて。マイクと右手が一緒に包帯でぐるぐると巻かれているのを見た瞬間、緊張と覚悟が一気に流れ込んできて呼吸が止まった。たたかってるんだ と思った。生きているんだ と思った。さまよって、掻き分けて辿り着いた未来で、まふまふさんは今日もたたかっている。生きている。

全てを出し切って、もう立っているのだけで精一杯みたいなまふまふさんを見て、震える呼吸を必死に整えてやっと音になって伝えられた「ありがとうございました。」という言葉と共に深く深くお辞儀をする姿を見て、堰を切ったように声を出してありえないくらい泣いた。こんなに嬉しくて誇らしくて幸せな気持ちで溢れて涙が出たのは初めてだった。本当に、好きになってよかった。


紅白の反響、いろんなサイトで打たれるコメント。目まぐるしいスピードでまふまふさんの名前が飛び交った。

これまで、「まふまふ」という単語を自らの手で打って検索することを少しだけ避けてきた。

得体の知れないものは即批判を浴びせられる。特に“インターネットの活動者”はなんとでも言われてしまう世界で、インターネットを開けば目も当てられないような酷く醜い言葉たちで溢れている。

でもその日、溢れたのはまふまふさんに向けられた花束のような言葉たち。

まふまふさんを初めて知った人。歌っているところを初めて見た人。名前だけ知っていた人。何となく、見ないでいた人。まふまふさんを嫌いだった人。久しぶりに見た人。

本当にたくさんの人の心をまふまふさんは動かした。

まふまふさんが変えた世界。こんな日がくるなんてなぁ。

 

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そんなことを思い出しながら、

笑顔でいってらっしゃい!おやすみなさい!って言えるといいな と思った。

あんなに待ち望んでいた東京ドームの日。その日が近づくにつれてちょっとずつちょっとずつ「来ないで」の気持ちが表れて、でもやっぱり会えるのは嬉しくて。夢が叶う日と会えなくなる日が重なってしまった。なんだかよくわからないふわふわした気持ち。いろんなことに対して現実味のないまま気づいたら夜行バスに乗っていた。その日の夜の配信の通知を未だに消せないでいる。

 

12時間ってどのくらいだよ と想像もできなかったけど、本当にあっという間に時間が過ぎて。東京に足を踏み下ろした時、ここでまふまふさんが生きてきたんだと思うとすごく緊張したし、全部が夢みたいで凄くて不思議だった。

 

東京ドームは本当に大きくて広くて、ああ本当にここでまふまふさんがライブをするんだなぁ 凄い人についてきてしまったなぁと思った。まふまふさんがここまで連れてきてくれた。まふまふさんに出会わなかったら東京ドームなんて一生来なかったかもしれないのに。不思議だな。巡り会いは本当に奇跡だ。

 

 

 

わたしはめちゃくちゃ弱い人間で、見ず知らずの他人を極度に怖がって、それをセーブできずに敵と見なしてしまう癖がある。本当に直したい短所なんですけど。

東京ドームに着いたら当たり前だけど、たくさんの人。知らない人。案の定めちゃくちゃ怖くなってしまって、びくびくしながら会場に入った。


だけど、

ライブが始まって、会えたのを心底嬉しそうにする人。曲に体を揺らせてペンライトを大きく振る人。まふまふさんが何かを言う度に楽しそうに笑う人。タオルをずっと目に当てている人。

ここにいる人たちの人生には、きっかけや大きさ・形はそれぞれだけど、まふまふさんが影響しているんだ。そんな人たちがこの会場に集まったんだな。

そう思うと愛おしい気持ちでいっぱいになった。

「基本的に、ボクの好きな曲たちはいつも暗いんですよ。ボクの曲の中には楽しいものだけじゃなくて、つらいとか寂しいとかそういう気持ちを綴ったものをたくさんあって、それを演奏していこうと思います。ただ、それは聴いてくれるみんなに陰鬱な気持ちになってほしいとかつらい気持ちになってほしいとかじゃなくて。やっぱり、つらい時は『つらい』とか、苦しい時は『苦しい』とか、言いたいよね。思ったこと言えないじゃん? 生きてるとさ。でも音楽とかライブとかってそういうの何も気にしないで出したって良いと思うんだ。だって、この会場はまふまふのことを知ってくれてる人と、まふまふと、ボクのことを支えてくれるみんなと だけで。ここにはなんと仲間しかいません。敵が居ないぞ!!凄くない? これって。電車に1000人とか乗ってて知ってる人はひとりもいないけど、ここには何万人の人が共通の目的で集まってる。もう笑おうが泣こうが何をしようが許されてしまうのではないかと思うんですよ。そうあるべきだと思うんです。だから今日は、声が出せないけど、思いっきり、思いっきり楽しんで、自分の感情を爆発させてください。お願いします!」

そうか、わたしは何も怖がらなくてもいいのかもしれない。

「ずっとやりたかったことがあるんだ。みんな内緒にしてくれる?お願いね」って言葉に「なんだろう〜」『ね』って聞こえてくる会話、同じ瞬間を楽しんでいること。

「みんなにはすごくすごく心配と迷惑をかけてきた11年間でした本当にすみませんでした!!!!!」と大きな声で謝るまふまふさんに「可愛いからいいよ」と即レスする隣のお姉さんとか。

懐かしい曲やるねって言われて、林檎花火やフューリーのイントロ流れた瞬間、小さく歓声が上がるのとか、夢のまた夢やすーぱーぬこになれんかったで5万人の手拍子が揃うのとか、ほんとに気持ち良くて楽しくって、これがまふまふさんの11年間が作り上げた景色で ああこんな時間を2年間待ち続けていたんだよなぁって。

同じものを見て、感じて、一緒に楽しいって思って。愛に溢れた空間で。ああこんなに楽しいんだな。

 

 

 

活動休止前最後に投稿された新曲。これを聴いてしまったらもう本当におやすみになってしまうと思うと嫌でこわくてしばらく聴けなかった。意を決して聴いたあとにでてきた感情は寂しさや悲しさじゃなくて。やっぱりまふまふさんの音楽が好きだなぁ。じんわりと胸の内に広がっていくように、確かめるようにそう思った。まふまふさんの音楽は本当にかっこよくて。

1曲だけ。他の言葉を一切のこさず音楽だけをのこして行った彼はきっと、かっこいいでしょ?と笑ってるのかもしれない。かっこいいよ。だけどさみしいよ。かっこいいよ だって大好きなんだ。

 

 

 

完璧であることがかっこいいわけじゃない。完璧は意外とそこら中にある。

まふまふさんはとんでもない人だ。期待を簡単に超えてしまう人。誰もしたことがないことをやってしまう人。きっと想像してるよりずっとすごい人。

“不可能を可能にする” こと。言葉では簡単に言ってしまえるけど、それがどれほど大変で難しいことか、大人になればなるほど知っていく。

“他の人にはできない” こと、いやもっと大きな “誰も考えつかないこと” をやってしまうことがかっこいいんだと思う。ありえない、想像もつかない、期待なんて簡単に超えてしまう。危なくて、でも最高にワクワクする、そんなこと。

人間じゃ普通は歌えない高くて速い歌を歌ってしまうこと。誰かが作った曲をカバーする存在であった歌い手が自分でオリジナル曲を作ってしまうこと。歌い手がドームに立つこと。東京ドームライブを無料で配信してしまうこと。歌い手が紅白に出ること。東京ドームをひとりで埋めること。

革命を起こす人は誰がなんと言おうと、苦しいほど眩しくてかっこいい。

 

踏み出すこと、新しいことをすること。

誰かの作った道なんかない。足跡なんてひとつもない。どっちが前かもわからない。抱えきれないほどの重圧の中で、険しくて苦しいのを掻き分けて、踏みしめて、ボロボロになりながら一歩ずつ、確実に進んできた。新しく道を作ってきた。

痛かったと思う。苦しかったと思う。でも、立ち止まらずにここまで来た。脇目も振らず走り続けてきた。ああまふまふさんには、まふまふさんしかいなかったのかもしれないな。自分からの重圧をも抱えて立ち止まれなかったのかもしれない。


わたしたちは自分で世界を選択することができる。

「自分が本当に何者かを示すのは、持っている能力でなくどのような選択をするかということ。」

やりたいことができないんじゃないか、邪魔してるんじゃないか。杞憂と言ったらそれまでなんですけど、ここ数年ずっと気がかりで。とにかく自由に生きてほしくて、やりたいと思ったことは何にも邪魔されることなくやれていたらいいな と願っていた。だから、誰もが見ることの出来る東京ドーム無料配信を行ったり、紅白に出ることで、少しずつ、わたし達以外にも自分を示していることが本当にすごく、嬉しかった。

 


生きること 死ぬこと

「遺書は、死の代償として支払われたいものの価値が書いてある。」

まふまふさんは自分の命を削って何を遺したいのかな。手にしたいのかな。

「死にたい」の裏側にずっと付き纏ってきた「死ぬことが怖い」。その言葉の意味、真意。死と向き合う一生。まふまふさんがふと、気を抜いた時に考えることは死のことなのだろうか。死から目を逸らせないこと、考えるだけで息が詰まってしまう。まふまふさんは今日までそんな毎日とたたかってきた。きっとこれからもそうなのだろう。

「____まふまふさんはそのテンポ感じゃないと、呼吸ができないんだと思うんですよね」

一分一秒を無駄にしたくない。呼吸する暇さえ惜しい。捨ててしまえる人生なら、奪ってしまいたい。それがまふまふさんの人生で音楽。

 

「わからないんだよ。100万再生されようが1000万再生されようが1億再生されようが、その画面の向こうにどれだけ人がいるってなかなか伝わりづらかったりする。どのくらいいるのかな  本当はあんまりいないんじゃないかな って思っちゃうことってあったんだけど、ああこんなにたくさんの人がいたんだなって」

「今日くれた景色はいつまでも続かない  瞬きの間に消えた星屑みたい」

確実なんて無いとわかっている。約束された未来なんて無いと知っている。変わらないものなんてないとわかっている。どれだけ苦しんで手に入れたものでも簡単に失えてしまうと知っている。今日が、今立っているこの足下がどれほど不安定か知っている。一瞬でも気を抜いたら崩れ落ちてしまうことを知っている。

 

ずーっとずっと、気を張って生きてきたんだろうな。まふまふさんは今日までどれだけのものを背負ってきたんだろう。何も考えずに眠れた日は何回あっただろうか。

なんでもひとりでできてしまう。でも、ひとりで生きないでほしい。


まふまふさんは本当に優しすぎる人で。それでいてすごく真面目で、周りを思いやる気持ちがとっても強い。

もっと自分のことだけを考えて生きてもいいのにな と思うことも多い。

「幸せが目の前にあってもそれを掴むことができない。」

 

自分の人生や音楽が誰かの光に、救いになっていることをもっと知ってほしい、届いてほしい。そういう思いと言葉がもっともっと彼に届いてほしいと強く思う。

本当に、歌でも現実でも口癖のように死にたいと言う人でした。どれだけ人気になろうと、むしろ人気になればなるほど自分は孤独だと言い続ける人でした。きっとこれからも言い続けると思います。でも、そんな救えない思いが、誰かの拠り所になり続けるのだと思います。その前提に立ってまふまふさんは変わった。大本や芯はずっと変わらない。でもその「死にたい」が前より少しだけ自分を認めていて、前を向けていることを感じていました。そんな矛盾を愛しました。

 

「やりたいことはすべてやっていけたらいいです。そうさせてくれる大好きな界隈なので」

簡単に手が出せるのに、核心に触れるのは難しく時間がかかる。だから誤解の多い世界です。なんとでも言われてしまう世界です。それでも、そんな世界を好きだ とまふまふさんは言いました。

まふまふさんが弱いところを出すのが怖くない、そんなところを見ても笑わず、抱きしめてあげられるような世の中になってほしいなぁ。心置きなく笑っていられるような、そんなあたたかい世界になればいいなぁ。

 

 

消えちゃったらどうしよう。いなくなっちゃったらどうしよう。それで、もともとなかったよ なんてことになってしまうことが怖い。今までが全部嘘だったんじゃないかと思ってしまう日がくることが怖い。だってたぶん、納得できてしまう。今までのものは全部夢だったんだって。それくらいすごくて、優しくて、綺麗で、正しくて。奇跡のような人なんだ。夢のような日々だった。

まふまふさんは今日を「夢を見ている」と言ったけど、じゃあわたしもきっと夢を見ているのです。

 

歌詞カードをお守りのように持ち歩いたり、授業中ノートも取らずにまふまふさんの曲の歌詞を夢中で書いたり。その言葉一つひとつを紐解いて、こういう意味なのかな こんな思いを込めたのかなと考えるのが本当に好きだった。

まふまふさんを通して素敵な出会いが沢山あった。初めてインターネットで友達ができて、こんなところが好きだよねってたくさん話をした。わたしにはもったいないくらいのたくさんの嬉しい言葉をもらった。いろんな景色を知った。振り返れば、まふまふさんに出会わなかったら手にすることができなかった宝物で溢れている。

 

「まふまふとして生きてきた10年が自分の人生の全て。」いつからかそんな言葉ばかりを口にするようになった。

自分は“ある”ものではなく、“創る”ものだ。

変わることは他の何者かになることではない。

あるアイドルが「後天的なものを褒められると嬉しいよね」と言っているのを聞いて、努力の言葉だなと思ったのをよく覚えている。

まふまふさんが“まふまふ”になった日から、それは。

 

「ああボクは、まふまふになって11年経って、この11年がボクの全てだってずーっと思ってて。今でも思ってるんだけど。でもそうじゃなくて、ボクが生まれてからこの30年間、つらかったこともあったけど、なんか、ちゃんと繋がってるんだなって思ったの。」

全ては繋がっている。“どんなかけ違いも間違いじゃなかったこと”

東京ドームで、5万人の光を見渡してまふまふさんがそうはっきりと口にした時、すごく嬉しくて安心して。ああ わたしはまふまふさんが好きなんだな。

わたしはまふまふさんが創り上げた世界が好きだ。でもそうじゃない、先天的なまふまふさんという“人”も本当に大好きなんだ。

 

 

「全てを失っても、まだ未来が残っている」

それは希望か、はたまた絶望か。

 

見なくたって頬を綻ばせて歌っている情景が思い浮かぶような歌詞が増えた。

等身大の自分を書いた歌が増えた。

振り返りながらでも前へ進む歌が増えた。

素直な言葉が増えた。

未来の話をすることが増えた。

「幸せだ」って口にすることが増えた。

「ひとりにしないで」となにかに怯えるように消えそうな声で言った少年は、「もう誰も信じぬように」と全てを塞いでひとりで生きていこうとした少年は、5万人の光に包まれながら約束するように確かめるように、「もうひとりぼっちじゃないよね」と歌った。

「ずっと世界中に嫌われてると思ってた。」

こんな世界 と言い続けた世界のことを「あったかいな 優しいな」って嬉しそうに言う姿を見て本当に嬉しくなった。

それはね、まふまふさんが踏み出したから。本当にすごく怖かっただろうけど。

「未来に繋がっていくと思うんですよ」

東京ドームでも未来の話をしてくれた。

こんな世界が待っていたんだな。想像なんてできなかったな。なんて、幸せなんだろう。

 

優しくて、優しくて、強くて、臆病なところが好き。

大きく生きるところが好き。

 

なんで優しい人ばかりが傷つくんだろう。

自分はなんて無力なんだろう。何もできやしない。守れない。何も伝えられない。届かない。

もう傷を数えて、自分を確かめるなんてしないでいい。痛みなんて知らないでいい。

まふまふさんが大丈夫でありますように。

幸せになってほしい。笑っていてほしいなぁ。

まふまふさんの目に映るもの、耳に聞こえるものがどうか、優しいものでありますように。

まふまふさんが目を覚ます時、温もりの溢れる世界になっているといいなぁ。あたたかくて眩しい光に包まれて、瞼の隙間からふわりと差し込む優しい光に呼ばれて心地よいお昼寝から目を覚ますようにこの世界に帰ってきてくれると嬉しい。

 


東京ドームの景色はまふまふさんにどんな風に見えていただろうか。

 

「ボク、ものすごいねぼすけなタイプなので、思いっきり寝て、気が済むまで寝て、11年間の不具合をなおしてきて、それでまたみんなに『おはよう』って言いにくるから。そしたらおはようって返しておくれ。」

立ち止まることはひとりになることで、すごく、勇気のいることだと思う。

「今日はね ボクはね、泣かないんだ。みんなも今日は泣かない。楽しい思い出で終わらせよう?そうしたら、きっとまた次は楽しい幸せな顔で会えますよ。」

そう言われたとき、ライブが始まってから初めて涙が出た。

 

「人前で歌うこと。上手く歌えても、下手くそな日でも、それよりも、みんなにきいてほしかったんだな」

「やっぱりね、ボクは音楽が好きだ」

屋根裏部屋で立て膝をついてパソコンと向かい合ってひとりで歌っていた歌は、いつしか東京ドームに響き渡る歌へと変わりました。

あの時のまふまふさんはこんな未来が見えていましたか?初めてまふまふさんの歌を聴いた時のわたしはこんな未来が見えていましたか?

 

夢だけど夢じゃない。奇跡じゃない。

消えたりなんかしない。大丈夫。

 

おやすみなさい。その日まで

今日はまだ、終わらない