ねむる夢がさめる日に

 

今とはまた別の、まふまふさんがほんの少しだけいなかった期間。心の整理をしようと、部屋の片付けをした。とにかく気を紛らわすための何かをしなきゃという気持ちだったのかもしれない。わたしの部屋はそれはもうわたしの心みたいにぐちゃぐちゃだった。教科書やプリントの山から中学の頃に将来について書いたアンケートを拾い上げて、「好きな人の歌をずって聴いていたい。」と書いているのを見つけて、そうだよね と思った。まふまふさんと出会った頃だ。まふまふさんのアルバムを久しぶりにスピーカーで流して、「寂しいまま今日を終わらせないから」って彼の声を聞いて、初めてそこで泣いた。そうだ 今日は、まだ終わってない。大丈夫。

 

ひとりで生きていかなきゃいけない

何かに縋って、依存して、そんな不安定な生き方をもうやめにしたい。わたしはちゃんとわたしの足で立っていたい。自分で嬉しいことを見つけて、自分でやりたいことを見つけて、自分で考えて、決断して、前に進まなきゃいけない。

 

3月の終わり。東京ドーム当選祈願をするつもりで行った神社で何故かまふまふさんの幸せを願っていた。

「どうか幸せで、元気で。」

結局これが全てなんだなぁと思う。

まふまふさんはひとりでいる時、どんなことを考えるんだろう。

まふまふさんは毎日、どんな夜を過ごしているんだろう。

息をすることも苦しくて、泣けないくらい悲しくて胸が空っぽで虚しくて。そんな夜を何回過ごしただろう。

明日が来るのが楽しみだって何回思っただろうか。

きっと何にも埋められない漠然とした寂しさをずっと抱えているのかな。

消えちゃいたいな。全部やめたいな って何回思っただろう。

 

綺麗だな  消えちゃいそうだな

どこか遠くを見つめるまふまふさんの瞳はビー玉みたいに澄んでいて、どこまでも続いていく世界があって。まふまふさんは何も無いよって言うかもしれない。でも本当に綺麗で。

 

 

まふまふさんの優しい歌が好きだ。優しくて、でも鋭くて、だけど臆病で、どこかかなしい、救えない歌が好きだ。まふまふさんしか持っていないから。

寄り添おうとしているわけじゃない。救おうとしているわけじゃない。ただひっそり、そこにいてくれる。

居場所を失った気持ちを、感情を、捨てないでいいよ  ここにいていいよ  ここだよって。世界に入れてくれたのはまふまふさんだった。

 

優しい人は、優しくあることは、それだけで幸せだと思っていた。でもそうじゃないことを知った。優しくすることは損をすることでもあると。奪われることであると。優しさは時に自分の道の、自由の邪魔をする。そう気づいた日から優しくあることの意味を疑ってしまう自分がいた。疑って、疑って、疑いながら、でもそんなはずないと信じたかった。だって優しさはあたたかくて柔らかい陽の光のような救いだから。優しい人はそれだけで。

 

まふまふさんはどんな時も優しかった。偽善なんかじゃない。手放しなんかじゃない。弱さなんかじゃない。そんな薄っぺらい、小さなものではかれるようなものじゃない、もっと大きな、何かで代えられるようなものじゃない、本当の優しさ。

優しい人がわたしの中にいること。

それがわたしにとって1番大事なんだと思う。

 

「寂しいまま今日を終わらせないから」

ずーっと寂しがってたまふまふさんが「ボクには何にもない」って言ってたまふまふさんが、寂しいままで終わらせないよって言ってくれたこと。今日がきらきらして見えた。まだ大丈夫だって思えた。期待と嬉しさと小さな不安を抱きしめて泣いた。

 

 

東京ドームまでの期間は時間とやるべきことに追われて、本当に今のわたしなんかがまふまふさんに会いに行っていいのかな  そんな資格あるのかな という思いがずっとぐるぐるとしていて、結構ギリギリな状態で生活をしていた。ああもう無理かも と諦めそうになった時はスマホを持ってトイレに駆け込んで、東京ドーム前の配信を聴いた。まふまふさんの「東京ドームまでがんばるぞ!」の声に励まされて、そうだよまふまふさんががんばってるんだぞわたしもがんばるぞ と思ってちょっと泣いたら現実の世界に戻ってなんとか頑張った。本当に何度も負けそうになったけど、そのたびにまふまふさんに救われた。

 

6月5日。あんなに神社に行ってまで願ったことだったのに、それが叶おうとしているのに、こんなに寂しくなってしまうんだな。人の気持ちってわからない。

通知を開いた瞬間飛び込んできた “無期限の活動休止”の文字。

一瞬心臓が鈍い音を立てて速まったけど、すぐに何でもないように「ああ、そうか おやすみするのかぁ」自分でも驚くくらい冷静に受け入れられた。つもりだったけど、話しているうちにどんどん、どんどん「さみしい」の気持ちに襲われて涙が止められなかった。

事情を知った母親が「大丈夫だよ。きっと前に進むためだよ」と慰めてくれる声を聞きながら、何年も前、 “まふまふ” って人が好きなんだと話した時に、「誰それ」といい顔をしなかった人に、そんなふうにを言われるなんて、なんて素敵で面白いんだろうと思いながら、また泣いた。

前に進むため。わかってる  わかってるけど  こんなにさみしいんだ。苦しいんだ。大好きなんだ。

 

 

--------------------

まふまふさんの紅白出場が決まった日。

「まふまふ  紅白」

ありえない単語が並んでいる記事を5度見したあと、泣きながら朝ごはん食べて、母親に「うそでしょ?笑 ほんとに?!?!すごいねぇよかったねぇ。頑張ってるんだねぇ前に進んでるんだねぇ えらいね。頑張ろうって思うね」って言われてもっと泣いたの思い出した。まふまふさんが変えてきた未来。

 

紅白本番、たぶん実感なんて湧かないんだろうなと思いながら、まふまふさんが映るとやっぱり実感は湧かなくて。マイクと右手が一緒に包帯でぐるぐると巻かれているのを見た瞬間、緊張と覚悟が一気に流れ込んできて呼吸が止まった。たたかってるんだ と思った。生きているんだ と思った。さまよって、掻き分けて辿り着いた未来で、まふまふさんは今日もたたかっている。生きている。

全てを出し切って、もう立っているのだけで精一杯みたいなまふまふさんを見て、震える呼吸を必死に整えてやっと音になって伝えられた「ありがとうございました。」という言葉と共に深く深くお辞儀をする姿を見て、堰を切ったように声を出してありえないくらい泣いた。こんなに嬉しくて誇らしくて幸せな気持ちで溢れて涙が出たのは初めてだった。本当に、好きになってよかった。


紅白の反響、いろんなサイトで打たれるコメント。目まぐるしいスピードでまふまふさんの名前が飛び交った。

これまで、「まふまふ」という単語を自らの手で打って検索することを少しだけ避けてきた。

得体の知れないものは即批判を浴びせられる。特に“インターネットの活動者”はなんとでも言われてしまう世界で、インターネットを開けば目も当てられないような酷く醜い言葉たちで溢れている。

でもその日、溢れたのはまふまふさんに向けられた花束のような言葉たち。

まふまふさんを初めて知った人。歌っているところを初めて見た人。名前だけ知っていた人。何となく、見ないでいた人。まふまふさんを嫌いだった人。久しぶりに見た人。

本当にたくさんの人の心をまふまふさんは動かした。

まふまふさんが変えた世界。こんな日がくるなんてなぁ。

 

----------------------

 

 

そんなことを思い出しながら、

笑顔でいってらっしゃい!おやすみなさい!って言えるといいな と思った。

あんなに待ち望んでいた東京ドームの日。その日が近づくにつれてちょっとずつちょっとずつ「来ないで」の気持ちが表れて、でもやっぱり会えるのは嬉しくて。夢が叶う日と会えなくなる日が重なってしまった。なんだかよくわからないふわふわした気持ち。いろんなことに対して現実味のないまま気づいたら夜行バスに乗っていた。その日の夜の配信の通知を未だに消せないでいる。

 

12時間ってどのくらいだよ と想像もできなかったけど、本当にあっという間に時間が過ぎて。東京に足を踏み下ろした時、ここでまふまふさんが生きてきたんだと思うとすごく緊張したし、全部が夢みたいで凄くて不思議だった。

 

東京ドームは本当に大きくて広くて、ああ本当にここでまふまふさんがライブをするんだなぁ 凄い人についてきてしまったなぁと思った。まふまふさんがここまで連れてきてくれた。まふまふさんに出会わなかったら東京ドームなんて一生来なかったかもしれないのに。不思議だな。巡り会いは本当に奇跡だ。

 

 

 

わたしはめちゃくちゃ弱い人間で、見ず知らずの他人を極度に怖がって、それをセーブできずに敵と見なしてしまう癖がある。本当に直したい短所なんですけど。

東京ドームに着いたら当たり前だけど、たくさんの人。知らない人。案の定めちゃくちゃ怖くなってしまって、びくびくしながら会場に入った。


だけど、

ライブが始まって、会えたのを心底嬉しそうにする人。曲に体を揺らせてペンライトを大きく振る人。まふまふさんが何かを言う度に楽しそうに笑う人。タオルをずっと目に当てている人。

ここにいる人たちの人生には、きっかけや大きさ・形はそれぞれだけど、まふまふさんが影響しているんだ。そんな人たちがこの会場に集まったんだな。

そう思うと愛おしい気持ちでいっぱいになった。

「基本的に、ボクの好きな曲たちはいつも暗いんですよ。ボクの曲の中には楽しいものだけじゃなくて、つらいとか寂しいとかそういう気持ちを綴ったものをたくさんあって、それを演奏していこうと思います。ただ、それは聴いてくれるみんなに陰鬱な気持ちになってほしいとかつらい気持ちになってほしいとかじゃなくて。やっぱり、つらい時は『つらい』とか、苦しい時は『苦しい』とか、言いたいよね。思ったこと言えないじゃん? 生きてるとさ。でも音楽とかライブとかってそういうの何も気にしないで出したって良いと思うんだ。だって、この会場はまふまふのことを知ってくれてる人と、まふまふと、ボクのことを支えてくれるみんなと だけで。ここにはなんと仲間しかいません。敵が居ないぞ!!凄くない? これって。電車に1000人とか乗ってて知ってる人はひとりもいないけど、ここには何万人の人が共通の目的で集まってる。もう笑おうが泣こうが何をしようが許されてしまうのではないかと思うんですよ。そうあるべきだと思うんです。だから今日は、声が出せないけど、思いっきり、思いっきり楽しんで、自分の感情を爆発させてください。お願いします!」

そうか、わたしは何も怖がらなくてもいいのかもしれない。

「ずっとやりたかったことがあるんだ。みんな内緒にしてくれる?お願いね」って言葉に「なんだろう〜」『ね』って聞こえてくる会話、同じ瞬間を楽しんでいること。

「みんなにはすごくすごく心配と迷惑をかけてきた11年間でした本当にすみませんでした!!!!!」と大きな声で謝るまふまふさんに「可愛いからいいよ」と即レスする隣のお姉さんとか。

懐かしい曲やるねって言われて、林檎花火やフューリーのイントロ流れた瞬間、小さく歓声が上がるのとか、夢のまた夢やすーぱーぬこになれんかったで5万人の手拍子が揃うのとか、ほんとに気持ち良くて楽しくって、これがまふまふさんの11年間が作り上げた景色で ああこんな時間を2年間待ち続けていたんだよなぁって。

同じものを見て、感じて、一緒に楽しいって思って。愛に溢れた空間で。ああこんなに楽しいんだな。

 

 

 

活動休止前最後に投稿された新曲。これを聴いてしまったらもう本当におやすみになってしまうと思うと嫌でこわくてしばらく聴けなかった。意を決して聴いたあとにでてきた感情は寂しさや悲しさじゃなくて。やっぱりまふまふさんの音楽が好きだなぁ。じんわりと胸の内に広がっていくように、確かめるようにそう思った。まふまふさんの音楽は本当にかっこよくて。

1曲だけ。他の言葉を一切のこさず音楽だけをのこして行った彼はきっと、かっこいいでしょ?と笑ってるのかもしれない。かっこいいよ。だけどさみしいよ。かっこいいよ だって大好きなんだ。

 

 

 

完璧であることがかっこいいわけじゃない。完璧は意外とそこら中にある。

まふまふさんはとんでもない人だ。期待を簡単に超えてしまう人。誰もしたことがないことをやってしまう人。きっと想像してるよりずっとすごい人。

“不可能を可能にする” こと。言葉では簡単に言ってしまえるけど、それがどれほど大変で難しいことか、大人になればなるほど知っていく。

“他の人にはできない” こと、いやもっと大きな “誰も考えつかないこと” をやってしまうことがかっこいいんだと思う。ありえない、想像もつかない、期待なんて簡単に超えてしまう。危なくて、でも最高にワクワクする、そんなこと。

人間じゃ普通は歌えない高くて速い歌を歌ってしまうこと。誰かが作った曲をカバーする存在であった歌い手が自分でオリジナル曲を作ってしまうこと。歌い手がドームに立つこと。東京ドームライブを無料で配信してしまうこと。歌い手が紅白に出ること。東京ドームをひとりで埋めること。

革命を起こす人は誰がなんと言おうと、苦しいほど眩しくてかっこいい。

 

踏み出すこと、新しいことをすること。

誰かの作った道なんかない。足跡なんてひとつもない。どっちが前かもわからない。抱えきれないほどの重圧の中で、険しくて苦しいのを掻き分けて、踏みしめて、ボロボロになりながら一歩ずつ、確実に進んできた。新しく道を作ってきた。

痛かったと思う。苦しかったと思う。でも、立ち止まらずにここまで来た。脇目も振らず走り続けてきた。ああまふまふさんには、まふまふさんしかいなかったのかもしれないな。自分からの重圧をも抱えて立ち止まれなかったのかもしれない。


わたしたちは自分で世界を選択することができる。

「自分が本当に何者かを示すのは、持っている能力でなくどのような選択をするかということ。」

やりたいことができないんじゃないか、邪魔してるんじゃないか。杞憂と言ったらそれまでなんですけど、ここ数年ずっと気がかりで。とにかく自由に生きてほしくて、やりたいと思ったことは何にも邪魔されることなくやれていたらいいな と願っていた。だから、誰もが見ることの出来る東京ドーム無料配信を行ったり、紅白に出ることで、少しずつ、わたし達以外にも自分を示していることが本当にすごく、嬉しかった。

 


生きること 死ぬこと

「遺書は、死の代償として支払われたいものの価値が書いてある。」

まふまふさんは自分の命を削って何を遺したいのかな。手にしたいのかな。

「死にたい」の裏側にずっと付き纏ってきた「死ぬことが怖い」。その言葉の意味、真意。死と向き合う一生。まふまふさんがふと、気を抜いた時に考えることは死のことなのだろうか。死から目を逸らせないこと、考えるだけで息が詰まってしまう。まふまふさんは今日までそんな毎日とたたかってきた。きっとこれからもそうなのだろう。

「____まふまふさんはそのテンポ感じゃないと、呼吸ができないんだと思うんですよね」

一分一秒を無駄にしたくない。呼吸する暇さえ惜しい。捨ててしまえる人生なら、奪ってしまいたい。それがまふまふさんの人生で音楽。

 

「わからないんだよ。100万再生されようが1000万再生されようが1億再生されようが、その画面の向こうにどれだけ人がいるってなかなか伝わりづらかったりする。どのくらいいるのかな  本当はあんまりいないんじゃないかな って思っちゃうことってあったんだけど、ああこんなにたくさんの人がいたんだなって」

「今日くれた景色はいつまでも続かない  瞬きの間に消えた星屑みたい」

確実なんて無いとわかっている。約束された未来なんて無いと知っている。変わらないものなんてないとわかっている。どれだけ苦しんで手に入れたものでも簡単に失えてしまうと知っている。今日が、今立っているこの足下がどれほど不安定か知っている。一瞬でも気を抜いたら崩れ落ちてしまうことを知っている。

 

ずーっとずっと、気を張って生きてきたんだろうな。まふまふさんは今日までどれだけのものを背負ってきたんだろう。何も考えずに眠れた日は何回あっただろうか。

なんでもひとりでできてしまう。でも、ひとりで生きないでほしい。


まふまふさんは本当に優しすぎる人で。それでいてすごく真面目で、周りを思いやる気持ちがとっても強い。

もっと自分のことだけを考えて生きてもいいのにな と思うことも多い。

「幸せが目の前にあってもそれを掴むことができない。」

 

自分の人生や音楽が誰かの光に、救いになっていることをもっと知ってほしい、届いてほしい。そういう思いと言葉がもっともっと彼に届いてほしいと強く思う。

本当に、歌でも現実でも口癖のように死にたいと言う人でした。どれだけ人気になろうと、むしろ人気になればなるほど自分は孤独だと言い続ける人でした。きっとこれからも言い続けると思います。でも、そんな救えない思いが、誰かの拠り所になり続けるのだと思います。その前提に立ってまふまふさんは変わった。大本や芯はずっと変わらない。でもその「死にたい」が前より少しだけ自分を認めていて、前を向けていることを感じていました。そんな矛盾を愛しました。

 

「やりたいことはすべてやっていけたらいいです。そうさせてくれる大好きな界隈なので」

簡単に手が出せるのに、核心に触れるのは難しく時間がかかる。だから誤解の多い世界です。なんとでも言われてしまう世界です。それでも、そんな世界を好きだ とまふまふさんは言いました。

まふまふさんが弱いところを出すのが怖くない、そんなところを見ても笑わず、抱きしめてあげられるような世の中になってほしいなぁ。心置きなく笑っていられるような、そんなあたたかい世界になればいいなぁ。

 

 

消えちゃったらどうしよう。いなくなっちゃったらどうしよう。それで、もともとなかったよ なんてことになってしまうことが怖い。今までが全部嘘だったんじゃないかと思ってしまう日がくることが怖い。だってたぶん、納得できてしまう。今までのものは全部夢だったんだって。それくらいすごくて、優しくて、綺麗で、正しくて。奇跡のような人なんだ。夢のような日々だった。

まふまふさんは今日を「夢を見ている」と言ったけど、じゃあわたしもきっと夢を見ているのです。

 

歌詞カードをお守りのように持ち歩いたり、授業中ノートも取らずにまふまふさんの曲の歌詞を夢中で書いたり。その言葉一つひとつを紐解いて、こういう意味なのかな こんな思いを込めたのかなと考えるのが本当に好きだった。

まふまふさんを通して素敵な出会いが沢山あった。初めてインターネットで友達ができて、こんなところが好きだよねってたくさん話をした。わたしにはもったいないくらいのたくさんの嬉しい言葉をもらった。いろんな景色を知った。振り返れば、まふまふさんに出会わなかったら手にすることができなかった宝物で溢れている。

 

「まふまふとして生きてきた10年が自分の人生の全て。」いつからかそんな言葉ばかりを口にするようになった。

自分は“ある”ものではなく、“創る”ものだ。

変わることは他の何者かになることではない。

あるアイドルが「後天的なものを褒められると嬉しいよね」と言っているのを聞いて、努力の言葉だなと思ったのをよく覚えている。

まふまふさんが“まふまふ”になった日から、それは。

 

「ああボクは、まふまふになって11年経って、この11年がボクの全てだってずーっと思ってて。今でも思ってるんだけど。でもそうじゃなくて、ボクが生まれてからこの30年間、つらかったこともあったけど、なんか、ちゃんと繋がってるんだなって思ったの。」

全ては繋がっている。“どんなかけ違いも間違いじゃなかったこと”

東京ドームで、5万人の光を見渡してまふまふさんがそうはっきりと口にした時、すごく嬉しくて安心して。ああ わたしはまふまふさんが好きなんだな。

わたしはまふまふさんが創り上げた世界が好きだ。でもそうじゃない、先天的なまふまふさんという“人”も本当に大好きなんだ。

 

 

「全てを失っても、まだ未来が残っている」

それは希望か、はたまた絶望か。

 

見なくたって頬を綻ばせて歌っている情景が思い浮かぶような歌詞が増えた。

等身大の自分を書いた歌が増えた。

振り返りながらでも前へ進む歌が増えた。

素直な言葉が増えた。

未来の話をすることが増えた。

「幸せだ」って口にすることが増えた。

「ひとりにしないで」となにかに怯えるように消えそうな声で言った少年は、「もう誰も信じぬように」と全てを塞いでひとりで生きていこうとした少年は、5万人の光に包まれながら約束するように確かめるように、「もうひとりぼっちじゃないよね」と歌った。

「ずっと世界中に嫌われてると思ってた。」

こんな世界 と言い続けた世界のことを「あったかいな 優しいな」って嬉しそうに言う姿を見て本当に嬉しくなった。

それはね、まふまふさんが踏み出したから。本当にすごく怖かっただろうけど。

「未来に繋がっていくと思うんですよ」

東京ドームでも未来の話をしてくれた。

こんな世界が待っていたんだな。想像なんてできなかったな。なんて、幸せなんだろう。

 

優しくて、優しくて、強くて、臆病なところが好き。

大きく生きるところが好き。

 

なんで優しい人ばかりが傷つくんだろう。

自分はなんて無力なんだろう。何もできやしない。守れない。何も伝えられない。届かない。

もう傷を数えて、自分を確かめるなんてしないでいい。痛みなんて知らないでいい。

まふまふさんが大丈夫でありますように。

幸せになってほしい。笑っていてほしいなぁ。

まふまふさんの目に映るもの、耳に聞こえるものがどうか、優しいものでありますように。

まふまふさんが目を覚ます時、温もりの溢れる世界になっているといいなぁ。あたたかくて眩しい光に包まれて、瞼の隙間からふわりと差し込む優しい光に呼ばれて心地よいお昼寝から目を覚ますようにこの世界に帰ってきてくれると嬉しい。

 


東京ドームの景色はまふまふさんにどんな風に見えていただろうか。

 

「ボク、ものすごいねぼすけなタイプなので、思いっきり寝て、気が済むまで寝て、11年間の不具合をなおしてきて、それでまたみんなに『おはよう』って言いにくるから。そしたらおはようって返しておくれ。」

立ち止まることはひとりになることで、すごく、勇気のいることだと思う。

「今日はね ボクはね、泣かないんだ。みんなも今日は泣かない。楽しい思い出で終わらせよう?そうしたら、きっとまた次は楽しい幸せな顔で会えますよ。」

そう言われたとき、ライブが始まってから初めて涙が出た。

 

「人前で歌うこと。上手く歌えても、下手くそな日でも、それよりも、みんなにきいてほしかったんだな」

「やっぱりね、ボクは音楽が好きだ」

屋根裏部屋で立て膝をついてパソコンと向かい合ってひとりで歌っていた歌は、いつしか東京ドームに響き渡る歌へと変わりました。

あの時のまふまふさんはこんな未来が見えていましたか?初めてまふまふさんの歌を聴いた時のわたしはこんな未来が見えていましたか?

 

夢だけど夢じゃない。奇跡じゃない。

消えたりなんかしない。大丈夫。

 

おやすみなさい。その日まで

今日はまだ、終わらない