ブルーライトが消えた先

 

「大丈夫」の言葉が、勝手に大丈夫にされることが慰めの皮を被った痛い針だということを知った。伝わっていないんだな。また知らないうちにしていた期待が崩れ落ちていく音を聞いた。

「大丈夫?」って訊かれるより、大丈夫だなって何も言われない方が嬉しかったりするのかもしれない。好きなアイドルが、「わたしってそんな弱く見えるかな」って早口で笑いながら零しているのを見た時、もう勝手に大丈夫じゃないって決めつけるのはやめようと思った。

 

 

考えても変わらないことばかり考えては、いろんな感情が込み上げて、全部わからなくなったりしている。

 

 

 

まふまふさんのことを、画面の中(向こう側)の人=一生届かない人 だと知らず知らずのうちに思っていたような気がするし、実際そうなのだと思うし、向こう側にいるまふまふさんもわたしたちのことをそう思っていたのかもしれない。

いずれにしても、ブルーライトが消えた瞬間に全ては終わるし、わたしたちはひとりになる。その先で何が起こってるかなんてお互い知らない。


東京ドームの映像を見ながら、同じ空間にいるはずなのにまふまふさんがとても遠くに感じて無性に泣きたくなった。ステージと観客席との間には計り知れないほど距離があるように感じて、それが良いとか悪いとかの話ではなく、ただただそうなんだなと思った。

嬉しいこと、見せたいもの。知ってほしいこと。届かなくていいけど、思ってほしいこと。わからないでいてほしいこと。知らないでほしいこと。もっと話したいこと。諦めたくないこと。知りたいこと。素直な思いが生まれる度に、できないことを確認して、手のひらを空っぽにしてしまう。何も握れなくしてしまう。

本当か嘘かわからないことを本当っぽく言ってみても、目に見えなかったら意味はなくて。実際に確認できない不確かすぎるものは、一瞬にも満たないまやかしだったりする。形のないおまじないで何とかなることはこの世界では少なすぎて、涙も出ない乾いた失意を数えながら生きているような、夢も希望もない色褪せた現実。ごめんねって少女の自分に謝りながら生きてる。

 

 


まふまふさんのことをできるだけ「まふまふ」さん本人のことを見るように、そこだけはブレないようにしようと少し前に思ってから、自分の思い込みを通して彼を見ることはやめてきたつもりだけど、主観というものは引き離せないもので、時々、いやかなり、何ならツイートする度に、これはちゃんとまふまふさんのことを見れているだろうかと不安になる。だからこれを書いている今も怖いし、新しい言葉を足しては全部消したくなっている。何度も全部分からなくなっている。

 

とにかく生きてるなって思いたくて。

好きになった当時こそ、まふまふさんのことを神様や天使だと思っていた。漠然と、存在してると思ってなかったし、あの時は本当の意味でまふまふさんが「生きてる」と感じたことがなかった。どんなことがあっても涙なんて流さないロボットのような人だとも勝手に思っていた。けどまふまふさんの見えてきた部分と変化・自分自身の成長と変化を通して、まふまふさんは人間なんだなと思うようになって、わたしは今、まふまふさんの人の部分が好きなんだと思った。まふまふさんの変わりゆく、変わらない思いにずっとわたしはわくわくして、どきどきしている。

 

 

 

2022.06.11東京ドーム初日表。

光の渦から生まれて、白いモヤを取り巻いて、純白の衣装に身を包んだまふまふさんがステージ上に出てきた時、「え〜...神様じゃん」と思わず呟きそうになった。綺麗だった。初日の感想は本当にそれしか出てこないくらい心から綺麗だと思った。まずいと思った。またまふまふさんが神様に戻ってしまう。待ってくれ。青の衣装の相方の隣で白と黒のバイカラーの衣装を纏う背中を見て、この人はまた世界を全部ひとりで背負おうとしているんだなと思った。

 

2022.06.12活動休止前最後東京ドーム裏。

公演は悲しいとか寂しいが思っていたよりなくて、それ以上にとにかく楽しくて幸せで、そんな自分に驚いていた。東京ドームから出て、興奮も冷めないまま人混みに揉まれて歩きながら通知を開いてツイートにリプライを送った。まだ繋がっている気がした。

めちゃくちゃ泣きながら会場を後にする小さな女の子や、終わって写真も撮り終わって何をするでもなくただ東京ドーム周辺に座ってなかなか帰らない人達を見て「あー最後なんだな」と漠然と思った。

翌日、活動休止前最後の新曲の投稿ツイートを当たり前のように待っていたら、まふまふさんからのツイートはいつまで待ってもなくて。ただ静かにひっそりと音楽だけがのこされていた。「あ、もうなんだ」と昨日が一気に遠い夢になった。

 

 

 

人間は自分を大きく偽ることも小さく偽ることもできると思う。いちばん良いのはそのどちらでもなくありのままそのままで生きるということだというのはみんなわかっている。できたらしてる。そのままで生きるということは本当に難しくて、等身大という言葉が眩しすぎてちょっと苦手だ。自分が自分である方法を毎日必死に探している。

自分に嘘をついて皮を被って生きていると、知らぬ間に依存してだんだんそれが接着剤のように剥がせなくなっていく。そしてそれは本当の皮膚を侵食して心の中にまで入ってきて、いつの間にか自分になってしまう。本当の自分と言い聞かせてきた誰にも壊せないはずの思い描いた理想の自分は自分の手によって失われ、いつしか手の届かない距離に行ってしまう。本当の自分というのは、意外と弱くて脆い。それでいてとても不確かだ。

 

全部本当に勝手に思っていることだけど、まふまふさんがなりたかった姿に、今まふまふさんがなれているのかなと、本当は違うんじゃないかなと不安に思ってしまうことがあること。それは努力とか、そういうのじゃどうにもならない部分。運命なんて言いたくないけど、他者との関わりで初めて存在する自分は、どうやったって他者の認識で象られるし、それに沿って生きていかなければならない部分は必ず生じる。でもそれに縛られずに自由に生きてほしいなと思う。

まふまふさんに自由であってほしいと願いながらそれが叶わない、こちら側が縛ってしまっているジレンマや、本人が絶対に悪くないこと それが大きくても小さくても簡単に謝ってしまうこと。本当に届いてほしい言葉は埋もれて、溢れかえるのは薄っぺらい恥の切り接ぎ。ごめん と思う。ツイキャスYouTubeの生配信のコメント欄はいつからかずっと見れなくなってしまったし、まふまふさんの綺麗な「ありがとう」が信じられなくてつらかった。ありがとうと言われる度にごめんと謝った。まふまふさんは罪を背負う必要なんてどこにもなくて、罪を背負って生きていかなきゃいけないのはわたしたちの方だ。

どうにかしたいという思いが強くなっていくばかりで何も出来ない自分の無力さを自覚するだけだった。

まふまふさんはすぐに独りになってしまう。遮断してしまう。だから目にする情報に偏りがあって、マイナスな情報ばかり彼の心に住み着いていくのかなと思う。インターネットが居場所というのは怖いことだなと思う。無制限で、そこにある“自由”というのは無法地帯のような惨状だ。時にはそれが眩しく見えるけど、ずっと居るとなると消費されていくばかりだろう。

だからまふまふさんは意図的に距離を取っているように感じる。

 

まふまふさんは謙虚で、超がつくほど真面目で苦しいくらい優しい。だから、何も言ってくれない。

まふまふさんは隠すのが上手だ。傷付いてないふりを当たり前のようにする。でもたまにわかる。少しかなしそうに笑うとき。そうやって一息ついた後ごめんねって小さく言う時。明るい言葉を自分に言い聞かせるように言う時。自分が叩かれるのは嫌じゃないよ 何も思わないし、気にしてないよって言葉。「こんな自分」って自分で自分に傷を付ける時。傷付いてないふりを上手にさせているのはわたしたちだ。上手になっても傷がなくなるわけじゃない。痛くなくなるわけじゃない。ぎゅうぎゅうと押し殺した心の叫びがいつかまふまふさんを襲う。夜が怖い。ひとりでいる時。音楽をしていない時。狙ったように襲わないで。どうかそんな瘡蓋になれない見えない傷も痛みもまふまふさんには優しくなってあたたかく撫でてくれるものに変わってくれることを、そんなありえないことを願う。

 

自分の中のいちばん大切なものが周りにも大事にされるかどうかは、けっこう博打みたいなものだと思っていて。“周り”の対象が家族や友人のような身近な存在ならまだ希望はあるかもしれない。だけどインターネットという規模の確立していない無限な世界だとどうだろうか。伝わるように言葉を投げても向かう先はわからず、正直自分がどこに投げているのかもわかっていないからあまり力強く投げられないし弱すぎても足下に落ちてただ自らの目で確認するだけになる。そもそも着地点が近くだろうと遠くだろうと、それを正しく拾い上げてくれる人がいるかなんてわからない。

「スピーチみたいにみんなの前で喋っているというよりは1対1で話しているような感覚」だけど、「画面の向こうにどれだけ人がいるってなかなか伝わりづらかったりする。どのくらいいるのかな  本当はあんまりいないんじゃないかな って思っちゃうことってあって」

信じるしかないのだなと思う。不確実すぎるこの世界で、それでも納得して自分の足で前へ進んでいくためには。計り知れない信頼を纏った期待とそれをいつでも捨ててしまえる潔い諦めと。

 

 


見えないものは、あると思われない。

まふまふさんは影で傷付いて影で頑張って影で泣く。そうすべきだと思っているからなのか。そうしたいからなのか。そうせざるを得ないのか。そうさせているのか。

東京ドーム裏、エグゼキューションで「ボクは誰  わからない」と歌ったあと、まふまふさんの足下から大きくて濃い影が映し出された。影にいるまふまふさんはいつも見ているまふまふさんじゃなかった。

 


仕方がないことだけど、その時に知れないのはつらい。あの時、実はって打ち明けられても、もうあの時には戻れない。

東京ドーム、「湿っぽく終わらせない」の言葉の通り、楽しい明るい気持ち、前向きな気持ちで終われた。意外と大丈夫なのかもなと思った。

でも2ヶ月後に配信された当日の映像を見て、全然そんなわけなかったことを知った。何を見ていたのか。あんなにわたしたちにかなしい暗い気持ちにさせないようにしておいて、自分は何度も涙を堪えていた。気付かれないように必死に。観客席からは分からないほど小さく。本当にずるい。

かっこ悪いところを見せたくないまふまふさんはすごく人間らしいなと思う。器用に生きているように生きるまふまふさん。その時に知れなかったのはつらいというか悔しいけど、泣くのを我慢して、笑顔が一瞬崩れるのを見た時、まふまふさんはここにいると思った。

 

 


こんな自分がまふまふさんを応援してていいのかと思うことが多い。前回少しだけ書いたけどそれこそ東京ドームに行く前なんかは何十回も思った。こんな自分がまふまふさんに会いに行っていいのか。こんな自分が好きだって意思表示していいのか。

まふまふさんはたたかってきた人だ。死ぬほど頑張った人だ。死ぬ気で生きている人だ。

わたしは、ぬるま湯に浸かって、命を削るほど見たい夢もなく、惰性で生きて、情熱を他人から貰って、泣いたり笑ったりそれで生きたつもりになっている愚かな人間だ。生きてなんかないと思う。そんな人間が近づくなんて失礼だと思った。もっと本気で、強くて、生きてる人に届いてよ。手を繋いでよ。

面白いこと、本物だと思える人やものに出会うと、出会えた喜びと同時にまふまふさんにも届いてほしいなと思う。同じ想いを持っている人、それが届いて、ひとりじゃないんだって思えるといいな。

ひとりになる回数が減るといいなと思う。こんな世界も悪くないなと思える最高な何かにたくさんたくさん出会って欲しいなと思う。やりたいや楽しいの気持ちが尽きないといい。音楽が裏切らないでくれるといい。どうか本当の本物と、生きてる人と、手を繋げることを願っています。笑えるよね最悪だよね でも気持ちいいよね ってこの世界を乾いた最高の笑いで囲んで見下ろしてほしいと思う。

やりたいこと全部やって、全部ぶち壊してほしい。

 


わかっているつもりだけど、「“つもり”に過ぎないよね。全然わかってないよ」って自覚させられる瞬間。いつかはさめる夢をもっと覚悟を持って見るべきだと。ガツンと殴られたみたいな感覚になる。わたしは何を見てきたんだ!何をしてるんだ!と自分に叱りたくなるような。

今にも倒れそうな足取りで命を削って歌っている姿を見た時。あの時、本当は消えようとしてたことを知った時。包帯でマイクと一緒に巻かれた右手を見た時。ぎりぎりの、限界を超えた不安定な一歩を繰り返して階段を上る姿を見た時。本当は泣いていたことを知った時。理不尽に傷付けられていたことを知った時。

 


我儘だけど何も知らないからこそ、強く思う。勝手にいなくならないで!好きでしょうがなくて、奇跡みたいなこの夢の日々をずっと大切にしたくて、失った未来のことを考えると泣いてしまうような、なのに今意外と普通に生きられてるような。何なんだよ!と思う。自分でも。

何も言わずに消えようとしたことが今まで何度もあったことを明かされた時、本当にぞっとしたし何も気づかなかった、知らなかった自分に腹が立った。今回の休止も東京ドーム2日目のMCで発表しようとしてたと聞いて、おい待ってくれよと思った。まじで先に伝えてくれてよかった。

ブルーライトが消えたスマホの黒い液晶に映った自分の手を見て、ここだけが繋がる場所で、こんな小さくて狭い手のひらから無限に繋がる。なのに何もできなくて、これを失ったら全てが無くなる。なんて世界を生きてるんだと思った。

結局本当なんてわからないし、仕方がない。自分と自分以外。他人はどこまでいっても他人でしかなくて、仕方ない。誰のせいでもない。わかったふりは大嫌いだけどわからないからってわからないままはつらい。何もできないのはつらい。こうなんだろうなこうかもなを自分に繋げて、そうやって生きていくしかない。

行き過ぎたくらいの覚悟を持って生きてる、そういうところが好きだし、憧れている。でももう少しだけ話してほしい。力になんかなれないだろうけど少しだけ背負わせてほしい。

 

 

 

東京ドーム、表の日はTwitter表示をデフォルトにして、裏の日はダークモードに戻した。紅白の日は白組だから、デフォルトの白表示にした。

何気ない日々に特別を生み出してくれたり、何気ないことを特別に変えてくれたり。本当に毎日幸せで楽しくて。こんなに貰ってばっかりでいいのかなって不安になるくらい本当に幸せで。

ずっと変わらず、何かが終わる度に強くなっていくのは好きになってよかったという思いで。投稿された歌ってみたを再生した時に流れ出したギターの音であーまふまふさん好きそうだなぁって思うこととか、この言葉あの曲でも使ってたなって重なることとか、Twitterに投稿された写真を見てまふまふさんがあんまり着なさそうな服だなぁ珍しい〜って思うこと。時間を超えて点と点が繋がるような。あぁわたしは本当に、好きになった日から今日までずっとまふまふさんのことを好きなんだなってその度に気づけることが嬉しくて。

 

18時を楽しみに待つことも、夕方〜夜の間Twitterの通知を必ずチェックする毎日も、ツイキャスかなYouTubeかなって両方を行き来することも今までが嘘だったかのようにぱったりと無くなった。


いろんなことを考えるし、休止になってから前以上にいろんなことにまふまふさんを重ねるようになった。まふまふさんだったらどうするだろう。優しさやあたたかさに触れると、これをまふまふさんに体験してほしかったなと思うし、良いことがあると、まふまふさんにもこんな良いことがあってほしいなと思う。

 


選ばなかった方を不正解で選んだ方が正解だなんて簡単には思えなくて、選ばなくてよかった こっちでよかったって思える何かが起こるのを待たないと、自信を持って前に進めなかったりする。でもそれがあったらあったで、残酷な事実だったり、知らなくていいことだったり、知らないままの方が綺麗な人間であれたのに と落ち込んだり。真っ直ぐ立って、後ろを振り返らないで前に進むことは本当に難しい。

自由になる人はそんな選択に何度も何度も出会ってきたんだろうなと思う。たくさん決断してきたんだと思う。

傷付けられなくても、優しい人だから自分から傷付いてしまうこともあるのだろうなと思う。何かを選んだ時、何かを捨てたなんて思わなくていいし、優劣だなんて思わなくていい。罪なんか何にも感じなくていい。偽善なんてどこにもないから。まふまふさんは何をしても大丈夫。好きを選んで大丈夫。やりたいことをやって大丈夫。自由で大丈夫。

 

 

心に響かないでと願う時がある。雑音なんかに耳を傾けないでいい。

まふまふさんがまふまふさんだけの、見たい夢を見れるといいなと思う。

 

幸せになりたくて何がいけないんだろう。夢を見ることの何がいけないんだろう。

誰だって愛されたいし、傷つくのは怖い。死ぬのはこわいし、大切な人を失うのはもっと怖い。明日が憂鬱な日の夜は永遠であってほしいのに日が昇るのはそういう時だけ異常にはやいし。

死ぬとか失うとか必ずやってくる朝のこととか、避けられないどうしようもないことを考えるだけで頭の中が真っ暗闇に埋もれて、もう全てが無意味に感じて、いっそ終わらせちゃおうよとか全部捨てたくなっちゃうのに。

避けられなもの、どうしようもない仕方のないこと以上に、何とかできるはずの意図的なナイフによって体を穴だらけにして生きている。おかしい。当たり前ってこうだっけ?人ってこんなに傷付け合う生き物だっけ。生きるって傷付くことだっけ。生きるって我慢することだっけ。人生って今日を怯えながらこなして眠りにつくことだっけ。

できるだけ大丈夫であれるように。できるだけ大丈夫と思えるように。血を流しながら、「こんなの普通だよ」って思っちゃってる。美化して、美談にして消費してほしくない。それで消化したようなつもりになってほしくない。自分のせいじゃないのに無意味に傷つかなきゃいけない理由なんてどこにもないのに。

本当に、優しい世界になってほしいと思う。なんでだよ と怒りを通り越してもう生きることに希望を失ってしまうような出来事を見る度、優しい人が優しいままでいられることを祈る。

もっと許し合えるし、信じ合えるはずなのに、ちょっと変われば許せなくなって、過剰に疑って決めつけてそれの繰り返し。本当か嘘かわかんないこと、自分にとって都合のいい形に変えて語って気持ちよくなって、あとはどうでもいい。

難しいことばかりで、正しさってなんだろうなと思うし。偉そうなことを言ってみてもそれに見合ってない自分を見て、気持ち悪くなって自分のことがまた嫌いになるくらい。でも生きることはもっと素晴らしいものだと思う。わたしたちは幸せになっていいはずだ。まふまふさんが好きだって言った世界をもっと好きでいたい。好き以上に好きになれるくらい大きな世界にしたい。できると思う。どうか

わたしはたぶんまふまふさんが幸せになることを信じたいんだと思う。諦めたくないんだと思う。

 

 

ほとんどの人が目を逸らすことに目を合わせ続けて、息ができなくなるまで。

「音楽が人生そのもので、それしかない。」ステージ降りたら、配信切ったら死ぬって思いながら舞台に立っている。そうやって、いつもその瞬間に、全てを終わらせている。

わたしはそんな生き方できないから、そんな覚悟がないから、泣いてしまうくらい憧れて羨望している。

 

許されたくて救われたくて消えてしまいたくて。たぶん本当はいつもさみしくて泣いてて。そんな思いを武器にしてぶつけ続けてる。今日もどこかでたたかっている。どれだけぶつけても壊れないから。一生消えないから。

倒れそうになるまで歌う理由。叫ぶ理由。呼吸ができなくなるまで歌う理由。自分で自分を傷つけてしまうまで追い詰める理由。ひとりになる理由。

「ボクは生きているよ」

ブルーライトが隔てる向こう側で響くシグナルはたったひとりきりで叫んでいて、泣いている。抑えきれない衝動と葛藤。音楽にのせられた言えない痛みはわたしの胸を締め付け続けている。何かを求めて意思表示をする「生きてるよ」ってこの音が、声が、この思いが途絶えることがないように、隠されることがないように、消されることがないように。

ただ祈っている。

 

 

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